叢雲堂春秋

古典詩への憧憬を基軸に、書評と随想と ── If you're also a stargazer, feel the emotion. Think the thought. ──

無機物性愛/蒐集披瀝癖/果てしなき疲弊

 

 

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酒器を始めとして、身の回りの道具に尋常ならざる愛着を持っている様は私のTwitterに剋明に記されている。それでいっそ無機物性愛者になっては如何、ということを思った。

 

なっては如何、というかもともと無機物性愛を抱えているのではなかったか。今まで何十個の石を集めた?何百体のSDガンダムフルカラーを蒐めた?

 

言語に対する姿勢も、古典詩に捧げる憧憬も、恐らくそれらに向けた偏愛と大して変わらない。このような感覚で言語芸術に携わるとき、その態度は執拗ではありえても敬虔ではありえない。

 


自分を表現者ではなく媒介者だと述べて憚らない理由はここにある。何なら媒介者どころかただの蒐集家に過ぎなかった可能性すら浮き上がる。つまり自分の詠歌にしてからが私のためのコレクションに過ぎないということだ。

 

この思索を受けて、自分がこれまでの詠歌においてたびたび衝突して未だ回避できていない〈自閉的〉〈排他的〉〈独善的〉〈耽美的〉といった壁の存在と、その正体について漸く得心がいった。

 

 

私の詠む歌の言葉が、世界観はあっても読者が入るべき余地にしばしば欠けるというのは、このあたりの性癖に起因しているに違いない。そして私は、極めて悪いことにどうやらそれを剋服する気がないらしい。

 


そう。昔から他者に自分の集めた何かしらを見せびらかすことが強烈な快感を伴う生き甲斐であり、何にも変えがたい存在証明だった。その性癖の最も顕著な発露が連作歌篇、ということになるのだろう。一首の歌に那由多と阿修羅を共存させるような我田引水の振る舞いに、言葉と言葉が背中を向けあっていてなお違和感を抱かないのも当然の成り行きだ。何なら言葉に意思や個性や相性を見出だしうる人種のほうが私に言わせれば特異で空恐ろしく、不気味なくらいだ。

要するに私は言葉を信仰していない。

言葉に敬意を払っていない。

 

そして近頃「短歌連作」という呼称を廃して「連作歌篇」と称しているのは、十首からなる一篇の歌ではなく十行からなる一篇の詩として己の作品に触れてもらいたいがための苦肉の策だが、畢竟これも蒐集してきた言葉の披瀝という詞ありきの目的が「短歌」という心と密接に関わる表現形式と重大な齟齬を来すことを潜在的に感じ取って敢行した苦し紛れの逃亡だったのだろう。

 

 

つまり、私は歌を奴隷扱いした上で詩に亡命している。

 

 

どこまで言葉を蔑ろにすれば気が済むのか。歌などやめて詩を書けという方向に内部衝迫が向かっていく理由は上で語り散らかした通りだ。その上で自らに釘を刺しておきたいことには、歌というものは貴様の言語蒐集の披瀝に寄与させるための舞台でもなければ装置でもなく、ましてや奴隷などでは断じてないということだ。

 


私の行っていることはもうすでに歌ではなくなってしまった。あるいは詩であればそういう言語偏愛に基づく作品も多少は許されるかもしれない……そんな安易な考えに駆り立てられそうになる己に対しても腸が引き裂かれ古の猿どもの長嘯が月明かりの湖面に鈍やかに映る。

 


どの道思春期真っ只中の性欲に取り憑かれた少年が画面上ないし紙面上の色香に惑乱耽溺した末に精を垂れ流しにしているような、児戯に等しく自慰にも劣る衒学の域から離れることがない。ここまでの文中でいちいち挟まれてきた態とらしくも極限的な表現の数々についても自分で書いておきながら肌が粟立つ始末だ。

 

 

子供がノートに新聞から天体の写真を抜き出したものをスクラップし、大人による賞讃を待ち焦がれる。似而非芸術家が先人の作品を掠め取ってきてコラージュしたものを己の作品だと思い込んで騒ぎ立てる。そういう振る舞いしか能わないのだとしたら、すでに私の斯道に先はない。

 

 

仮令この双眸が己の歪みきった認識の通り炯眼であったとしても、それを靉靆たる承認欲求の夕靄でおぼろかに曇らせているうちは誰とも上手くいかないだろうし、何も上手くいかないだろう。

 


もう私は疲れた。背中に覆ひ被さつた狷介固陋な虎もろとも疾く疾く燃やして呉れ給へ。ひさかたの天より降らむ雨の槍に貫いて眼だけを東の門扉に飾つて呉れれば、それで充分だ。