叢雲堂春秋

古典詩への憧憬を基軸に、書評と随想と ── If you're also a stargazer, feel the emotion. Think the thought. ──

酒と私と。──酒器がもたらす媒介性──

 

先ほどの記事でも示したように、酒ばかり飲んでいる。依存性になっているかどうかだという次元にある自覚も強く持ってはいるが、アルコール依存性を身近に見てきたAC(アダルトチルドレン)としての観点からは、自分がそうなっているとは思っていない。

 

酒を飲むとき、私はそもそも酔うことを目的としていない。藻塩で焼いた時不知の鮭、島根の刺身醤油で煮付けにした鯛、胡麻油に柚子胡椒で焼いた鶏のせせり、照り焼きにして山椒を塗した鶏の手羽小間、そういうものをより美味しくいただきたいがために酒を飲む、といったことのほうがよほど多い。

 

そういった営為と私の間を取り持ってくれる存在が、酒器だ。媒介性ということは酒器とゲーテから学んだ。この世に生きて在るということには様々な「媒介的要素」が絡まる。

 

媒介は常に両者を増幅するために機能する。酒と私のあいだにもたらされる「陶酔」を増幅し、酒と肴のあいだに生まれる「調和」を増幅する。そうして増幅されたとき、私もまた何かを増幅する媒質と化している。そこにある両者がなんであるのか、それについてはまだ知りえない。「時間と私」「幻想と私」「食材と私」「作家と私」「経験と私」「記憶と私」……恐らく何でも当てはめられるのだろう。そして、殊更何かを当てはめる必要もないのだろう。

 

媒介によって自らが媒質となる、その瞬間の恍惚と忘我。それに身を任せていさえすればいい。そこには必ず空白、余白、「遊び」が生まれる。梁塵秘抄において「遊びをせむとや生まれけむ戲れせむとや生まれけむ遊ぶ子供の聲聽けば我が身さへこそ搖るがるれ」と詠はれた、その領域に自らを黙っておいていれば、それでいい。

 

いつか己が己を媒介に媒質となる日を夢見て、私は今日も酒を喰らう。酒が見せる夢に遊ぶ。月と影とを友として。