音の連綿を考える
歌において歴史的かなづかいが身体化してくると、勢いひらがなが増えるのが自然の摂理である。
という持論を、一介の歌詠みとして長らく持っている。ここでいう身体化というのは、現代かなづかいで発想したものを歴史的かなづかいに直すという作歌法ではなく、そもそも発想の段階で歴史的かなづかいであることを指し示す。
ひらがなの比率が高まってくる理由は、様々考えようがある。漢字だけでは視覚的に重すぎるから、歴史的かなづかいだということがひらがなでなければ鳴りを潜めてしまう語彙だから(例:水→みづ、声→こゑ)、一首として視覚的に極端に短いのが俳句めいて歌らしさを損なうから、など枚挙に遑がない。
光琳派の家元のような存在である本阿弥光悦は、俵屋宗達と様々な共作を行ったことで名高い。宗達の絵の上から記された光悦の筆、そうして響き合う「鶴下絵和歌巻」などはひとつの作品のなかでさえ相互に影響を与えて燦爛たる微妙な関係性の上に成り立っている。恐らくは尾形光琳・乾山兄弟による陶器の名品に対しても同じことが言えるだろう。
さて、ここに書道における「連綿」という考え方、筆法がある。
歌を縒り合わされたひとすじの、あるいは一組の「絲」であると考えたとき、光悦の筆は果たして筆蹟が連綿しているに過ぎないのだろうか。
この問いについて、私は否と答えたい。筆蹟に連綿が要求されるのは、記されようとした和歌の音じたいにすでに連綿が起こっているからであり、書家の運筆は筆を執ったその人の心の内奥に反響した歌の響きが反映した、その現れなのだ。
そう思い定めて歌というものを考えてみると、ひらがなは歴史的かなづかいによって連綿する音の様子を想起させるという、絶大な相乗効果をもたらしているのに気が付く。
ひらがなを主体に記された歌は、たとえそれが活字体であろうと読者それぞれの内面に秘められた連綿の形を音ともに想起させる。それが筆の形で現れるかどうかの差こそあれ、そういう現象が我々のうちに起こっていることは確かだと思う。
王朝歌人や中世の芸術家が持っていたであろう、毛筆による筆致を前提とした共同連想から我々現代人が全く弾き出されているかというと、恐らくそうでもない。そういうことをこの稿で示すことができていれば嬉しい。
ともあれ、いまはまだ歌が持つこのような可能性に全身全霊を賭けていたいというのが、偽らざる私の想いである。
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