灯禾亭春秋

古典詩への憧憬を基軸に、書評と随想と ── If you're also a stargazer, feel the emotion. Think the thought. ──

詩における〈志〉とは? ー随想

 

  詩とは即ち〈誌〉であり、志を言うものである―

 

という理念があるとして、私はこれをどこから得たのか。わざわざ問うまでもない、畢竟この考え方は唐詩に由来するものだ。思い返せば、私に初めて暗誦を企図させるほどの衝撃をもたらしたのは、唐の詩を初めとした、いわゆる〈漢詩〉の作品群であったことは疑うべくもない。

 

空山不見人 空山 人を見ず

但聞人語響 ただ人語の響くを聞く

返景入深林 返景 深林に入り

復照青苔上 また照らす青苔の上

 

 王維「鹿柴」 ※鹿柴(ろくさい)、返景(落日と反対側の夕光)

 この静かな山に人影は見えず、ただ話し声のこだまだけが響きわたっている。そうこうしているうちに夕影が深い林の中に射し初めて、青々とした苔の辺りを照らしている。

 

ここには人影のまばらな山あいにおける時間の推移が、澄んだ聴覚と苔に射した色彩とともに保存されている。そしてそれ以上のことは、何もない。

 

白鷺下秋水 白鷺 秋水に下り

孤飛如墜霜 孤飛すること墜つる霜の如し

心閑且未去 心のどかにしてしばらくは未だ去らず

獨立沙洲傍 独り立つ 沙洲の傍ら

 

 李白「白鷺鷥」 ※白鷺鷥(はくろし、白鷺をいう)

 

 白鷺が一羽、秋の水辺に舞い降りる。群れから離れて落ちてくる様子はあたかも空から降ってくる霜の姿に似ている。心中穏やかなのだろうか、今は立ち去る気配もなく、中洲の辺りにただ独り、茫洋と佇んでいる。 

 

白、秋水、霜、沙洲、と縁語的とも見える語の斡旋に澄んだ感慨が冴えわたる、この一篇の詩を静謐と爽涼をもって占める白鷺の姿に、李白自身の志、つまり心の在りようが現れていることは火を見るよりも明らかだ。

 

漢詩にはしばしば〈孤〉という修飾語が現れる。同じ李白の「独り敬亭山に坐す」に見える孤雲の語や、柳宗元の「江雪」における孤舟の語などがそれにあたる。多くはそこに己の在りようを寓意するためだが、翻って考えてみれば雲が方々に広がっていようと舟が数隻浮かんでいようとそれは究極的には孤独であるのかもしれない。

 

山鳥飛絶 千山 鳥飛ぶこと絶え

万徑人蹤滅 万径 人蹤滅す

孤舟蓑笠翁 孤舟 蓑笠の翁

獨釣寒江雪 独り釣る 寒江の雪

 

 柳宗元「江雪」 ※人蹤(じんしょう)、蓑笠(さりゅう)

 

 結局、詩や歌や句というものは、選ばれた言葉の並びと調べとが、何がしかの情感を十全に表出していればそれでよく、そこに滲んだものが僅かなりとも伝わりさえすれば〈志〉を言いおおせたということになるのだろう。言葉を用いて何かを表現したというその時点で、我々は修辞や比喩といった細工よりも実は大きなものを手にしている。

 

というのは、表現者としていささか妥協が過ぎるだろうか。

 

 

向晩意不適 暮れにならなんとして心適はず

驅車登古原 車を駆りて古原に登る

夕陽無限好 夕陽 無限によし

只是近黃昏 ただ是れ黄昏に近し

 

李商隠「楽遊」

 

※向は本来の訓読みとしては撥音便で向んとす(なんなんとす)が正しいが、意味をとりやすくするため枉げ改めた。

移ろふもの、成ることなし。

 

先日意を決して落札したノートPC、VAIO S15(シルビアではない)が届き、やや扁桃炎ぎみの体調を押して色々と試しているうちに書き物がしたくなった。そういうわけで以下、随想録。

 

なお、パソコンのキーボードで長文を打つのはこれが初めてとなる。順次慣れていきたい。

 

 

*****

 

 

 そう遠くない最近、カタカナ語を咄嗟に思い出せないことがあった。昔から日本語のことにばかり想いを巡らせていたせいだろう、どうも横文字という奴に弱い節があるらしい。

 

ところが文学という厄介な代物は他人様が不得手としているその横文字を好んでいるらしく、今や横文字は文学はおろか書籍全般とさえ切っても切り離せない。さて文学に隣接するジャンルだからといって美術や哲学の関連書に手を伸ばしてみれば、所狭しと吹き荒れる横文字の乱舞に行き当たること頻りなり。

 

いや、何もいま和語や漢語を大切にしようなどと抹香臭い小言をやおよろず並べにきたのではない。そんな高邁な理念めいたことは、各々が勝手に心掛ければいい話。今回はむしろその逆。

 

 

 どうも前置きが長くなっていけない。だがまだ話は続く。人に何かを端的に伝えようとするとき、漢語は威圧的な感じが前に出てしまうし、といってあまり和語に重きを置きすぎても話がまどろっこしいものになってしまう。古典からは遠ざかり、また時間に追われてばかりいる我々の生活に深くカタカナ語が喰い込んでくるのも、当然のなりゆきなのかもしれない。

 

こんなことばかり考えているせいか、期せずして自らカタカナ語を用いたとき、後でその部分だけが回想の中に異質な質量を伴って浮き上がってくることがある。そして、先に述べた事柄を反映しているかのように、その横文字に寄り掛かった言葉選びが実は自分の中で重要な、思惟の根幹を占めているものだったことに、はたと思い至ったりする。(そんな大層なものであればいいのだが)

 

 ようやく本題に入ることができそうだ。まったく、どうしてこんな回り道をせねばならないのか、自分でも呆れるばかりだ。つまり、最近自分の思考の端々に葉脈のようなものがあるとするならば、そこにいつも浸透している二語のカタカナ語がある、という話がしたかっただけなのだ。

 

まずひとつが、Phase(フェイズ)。そしてもうひとつが、Gradation(グラデーション)。このふたつの言葉に、いま私はとても惹かれている。

 

この頃、己を取り巻くあらゆる現状に対してフェイズという概念を持ち出すようになってきている。段階や局面を意味するこの言葉は、瞬間を長期的視座に置くことによって状況を相対化する働きを持っているように思われる。一方のグラデーションは、衣服や絵画などの色調や、その濃淡について使われることが多い言葉だ。

 

差異とは即ち変遷の一過程に過ぎず、色彩の濃淡に過ぎない。そんな俯瞰的な視座を持つことができたとすれば、それはこの二語のもたらす恩恵に沐したお蔭なのかもしれない。ここで思い出すのは、古語にいう〈うつろひ〉のことだ。移るという動詞に反復・継続の上代助動詞「ふ」が未然形接続した「移らふ・映らふ」が転じてできたこの言葉は、歌という営為にとって〈ながむ〉〈あくがる〉と並んで重要な語句だろう。

 

反歌一首

 

移ろひに過ぎずこの世の明け暮れも揺らめきやまぬこの篝り火も

 

 

 仮にも歌詠みの端くれである私が、和語の精髄を逆照射的に英語から再認識させられるとは、まさに他山の石、以て玉を攻むべしといったところか。それはそれとして、前置きに対して本旨が極めて短いというのは、いったいどういう御料簡なのか?ひとえに筆者の見識と筆力を疑う次第である。

 

 

 

ナタカ歌集『ドラマ』についての覚え書き

 

 巷で話題のコミケよろしく文学もすっかり個人頒布で販売される時代になった今日この頃ですが、皆様は文学フリーマーケット(通称〝文フリ〟)などに立ち寄られたことはあるでしょうか。私自身は実はまだ行ったことがなかったりします。

 

 さて、そんな文フリでも販売されていたナタカさん(Twitter:@Utanataka)の歌集『ドラマ』を今回はご紹介したく筆を執った次第です。私がTwitterに短歌を投稿しはじめた頃からの相互フォロワーで、その延長でたまにお酒を飲みに行ったりするようにもなりました。

 

元々著者の作る短歌を僕が好きだったことに端を発する間柄なので、やや贔屓が入ってくるかもしれませんがご了承いただければと思います。

 

私自身は著者の全体を通した作風を肌寒い日の陽光、乾いた優しさといった感じで捉えていますが、そのあたりの感性は作品集として纏められたことでより明瞭になっているようです。というわけで、『ドラマ』感想、参ります。

 

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無防備を集めて少し陽がたまる あくび はなうた うたたね ねこぜ

るるるると電話が鳴るけど今ちょっと泣いているるる出られないるる

 巻頭歌二首。猫が寝ているような印象も受ける一首目、物憂い春の一幕。人の持つ脆さが縷縷として溢れ出したかのような二首目は、技巧的。初句の〝るるるる〟は確かに電話の着信音だろうが、四句以降の〝るる〟は間に鳴っている着信音のようでもあり、鼻を啜る音のようにも思われる。

 

笑わせる役をしている弟の隣で笑う役をしている

 日常というものは、概して演技めいた色彩を帯びるもの。不全感が読ませる一首。

 

胸に星、不時着したんだってねえどうだきれいな炎だったか

 だってねえ、どうだ、きれいな、炎だったかと長音と拗音が心地よく響く一首は、不思議な美しさを持って胸に迫る。読んでいるこちらがこの一首に問いただされているかのような錯覚とともに。

 

蝶になるためのわずかな液体が蛹の中で起こすさざ波

 〝さざ波〟という比喩が抜群の効果を発揮する一首は、未生のものへの憧れを読者にもたらす。蝶を歌や詩の暗喩と読んでみるのも一興だろう。

 

ぬばたまの斎場の静けさを聞く いつか炎になる日を思う

 夜、闇、夢などに掛かる枕詞である〝ぬばたまの〟を斎場に掛けている。特筆すべきは、奔放ながらも端正な韻律の冴え。斎場の静/けさを聞く、という句跨りが読む者を一層厳粛な心持ちにさせる一首。静けさの中に燃え盛る炎は、あるいは救いかもしれない。

 

深々とフードを被るこの影を誰とも分かち合うことがない

 人がすべてそれぞれの形の影を引き連れているように、影と私たちは切っても切れない関係にある。人々が憩う木蔭などとは異なる、自らのためだけの影。遮るものの存在、分かち合わないことにこそ安らぎがある。そんな日は、私もフードを引きかぶってしまおう。

 

風ですか さっき私の首元にるっと巻きついていったものは

 あれは、本当に風だったのだろうか。〝首元〟という言葉選びにかすかな危うさが潜む。〝る〟の字のような複雑な軌跡を描いて過ぎ去った風は、きっとまた戻ってくるのだろう。

 

がらんどう、わたしのなかのがらんどう 無いとは痛むものなのですね

 自らの空洞に呼びかける一人の存在。読点の分だけ遅れてくるリフレイン。その反響は誰が返したものなのか。私か?空洞か?それがどちらであったとしても、私たちは痛みを抱えて生きていくしかないのかもしれない。

 

かまきりの鎌こそばゆくこの鎌で狩られるもののあるということ

 蟷螂の斧、という慣用句がある。捕食される対象にとって生命の脅威となるカマキリの鎌も人間にとってはくすぐったい程度のものでしかない。そんな一抹の寂寥感。

 

人間に生まれたからね たてがみに顔をうずめることができない

 人に生まれてしまった。獅子のたてがみに埋もれて甘えた日々を持つ一生もあったのだろうか。

 

あぽすとろふぃ、えす 僕はもうこれ以上だれのものにもならないからな

 

 切れ目の判別が難しくも巧みな一首。読点に従って読むと、しっかり定型に嵌っている。生まれ落ちた時点で人は誰のものでもない。あるいは自分のものだろう。He'sでもShe'sでもない、硬質な印象。

 

二度同じゆらめきはなく炎からもう目を離すことができない

 二度目の〝ことができない〟結句置き。炎そのものの一回性ではなく、その揺らめきの一回性に主眼を置いたあたりに技を見る。詩が生まれるときの炎、という読みも許されていい。

 

曇りのち雨のち曇り強く雨 傘をさすことには慣れている

 降ると降らざるとに関わらず、そしてたとえ強く降ってくることがあろうとも、雨を厭うことはない。傘さえあれば、雨だって旅のお供なのだから。そんな意志を感じる一首。

 

あじさいは骨まで青い まだ誰も見たことがないあじさいの骨

 詠み手としてはたやすく決まってくれる二句言い切りの一字空け。その強さがこれほど絶妙な強度で効いた歌を読めることはそう多くはない。ないものをないといいながらも繰り返されることによって生まれる異質な実在感。稀に見る秀歌だろうと思う。

 

裏返す鰆の白さ まぶしくて見られなかったもののいくつか

同じく二句言い切りの一字空け。ただ生きていたはずの鰆を食らって生きる私たちにとって、彼らの持つ背景は見るに堪えないものなのかもしれない。あるいは、その眩しさゆえに。

 

孤独って毒なのかなあなんかみんな触れないようにしてるんだよね

 わずかに幼い文体が見事な一首。すっとぼけた物言いの裏に潜ませた蠱毒が蝕んでいるのは、俺か、お前か。

 

うっとりとパンに塗りたい朝焼けは蜂蜜の瓶にためておくから

 この歌のみ逆選。二句の〝塗りたい〟と結句の〝ためておくから〟が照応しきっていない印象。ここは〝パンに塗ろうよ〟と呼びかけてほしかったところ。

 

言いかけてやめるさくらも言い切るもさくらひとりで歩くもさくら

 ひたすらに絶妙であり、感想も不要。私信として、背後に楠誓英のある一首を感じた。それが錯覚でなければ、とても嬉しい。

 

幼獣のようにじゃれつく春風を冬のさなかに見つけてしまう

駆け寄ってきたかたまりを抱き上げる はるかぜ、あたたかくてえらいね

 こんなにも秀逸な擬人法を久々に見た、というのが素直な感想。何の獣か特定していないところが一層好ましい。優しい二首。

 

ではご覧くださいウルトラハイビジョンカメラがとらえた猫のあくびを

 衝撃の技巧。それこそ動画のパースがあっていくかのように活写された猫のあくびがどうしても精密なものとして思い描いてしまう。無類の力業。

 

地上へは階段で行く失った走行性を揺り起こしつつ

 結句〝揺り起こしつつ〟によってこちらに眠った走行性も揺り起こされていくような感覚の共振を伴う。さあ、野生に帰ろう。

 

 

*****

 

 以上でこの感想を締めくくりたいと思う。全編を読み通して思ったこととして、著者の技術の幅はやはり相当なものがあると改めて感じた。反面、無意識のうちに〝決め技〟のようなものを持ってしまっていないかという点を危ぶむ。自覚のない決め技は、知らないあいだに効力を失ってしまう危険性を秘めている。既にその危殆に瀕してしまった実作者として、ひとつの老婆心をここに掲げておく。

 

最後に、ここで私が評を加える必要を感じなかったものの、好きだった歌と、返歌を二首。

 

死ぬのかと思ってしまうほど雨後の視界は光、光しかない

私にも部首をください仏さま雨かんむりをのせてください

変ですねこんなに澄んだ夜なのにだれもおもてを歩いていない

熱の日に食べるアイスの心地よさ 銀のスプーンに生まれたかった

 

 

世のなかをうすく儚むひとがいて影から見える光のはなし

 

雨というシロツメクサのかんむりを載せた貴女はきっと霽れやか

 

文責:田上純弥

 

 

 

 

 

回答編〝#短歌の人がいいねの数だけ短歌の話をする〟

 

 

 昔でいうチェインメール、DECOLOGなんかでもこういう文化はありましたね。異なるのは趣味というかやはりクラスタに依存するため多少内容が生産的だという点でしょうか。それとハッシュタグはチェインメールとは違い自主的に参加するという点も大きいですね。

 

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 そんなわけで、上記の画像が〝#短歌の人がいいねの数だけ短歌の話をする〟というタグとともにTwitterで回ってきたので、回答編です。20を越えそうな感じですが、超過分に関してはツイートに紐付けするかこちらの記事に追記するか未定です。では前置きはここまでにして、本題に入ります。

 

1.短歌はいつから詠みはじめた?

 

 2011年、当時19歳の頃、石川啄木に影響を受けて。こんな内容でええんやったら俺でも詠めるやんけ、と生意気なことを軽々しく思っていましたが、啄木の歌風はああ見えてバランス感覚が抜群でしたね。いま当時の作品を見返しでもしようものなら相当な噴飯ものです。

 

2.上の句と下の句どちらから思いつく?

 

 もうそういう段階は抜けました。使いたい言葉、歌いたい情景、それらをどこに配置したいか。そんな次元の話です。フレーズで上の句なり下の句なりが丸ごと連鎖的に浮かぶときもありますが、その場合の多くは上の句からでしょうか。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。理想は三十一音の連鎖発生です。

 

3.実景・虚構どっちをよく詠む?

 

 虚実皮膜、創作においてそれは表裏を一にするもの。区分することに意味は乏しいと思います。ですが、虚構にも色々ありますね。私的な事実に反するものである嘘、作者の想像の産物を中心に据えたものとしての幻想。嘘と幻想はやや異なります。

そういった意味では幻想をしばしば歌います。前者たる〝実〟については実景を詠む、というよりはむしろ実感を詠むという風に捉えています。

 

4.文語・口語どっちをよく使う?

 

 この区分もそろそろ忘れてみませんか。現代の日本語というのは、この国の歴史の全てを包括します。文語の中にも口語的な文脈はあるし、口語の中にも文語的な文脈はあります。とまあ、そんな身を躱す歌論めいたことは置いて、私自身は口語と文語の混淆体を取ることが多いです。かといって自らこれを混淆体などと意識してしまえば、言葉の身体化は遠のいてしまうことでしょう。

何はともあれ、二項対立の図式からは見落とすものが多すぎる。可能性を削ぎ落とすのが二元論。その鎌首に頭から委ねていいものなど、ありはしない。

 

5.横文字や外国語を短歌の中に使う?

 

 現代人である以上、それらが全く入ってこないというのは、自らが生きる時代への一種の拒絶ですよね。拒絶から生まれる詩もありますが。ともあれ、短歌詩型と必ずしも相性のいいものではないだろうと思います。ですがそれも比重と使いどころではないでしょうか。

思うに、俗語に長けた西行や定家なら何の憚りもなく使ってみせることでしょう。

 

6.どんなモチーフをよく詠む?

 

 自然詠が多いですね。あと思想詠。思想というと余計な意味が入るので、観念詠、あるいは抽象詠とでも申しましょうか。いつかの「短歌往来」でも書きましたが、四季の移ろいと心の動きが主たるテーマです。

それに応じたモチーフが自分にとっては自然や生物、つまりは普遍名詞ということになるでしょうか。月と植物はよく詠みます。詠むというか、向こうから呼びかけられるので抗えないのです。細かくいえば火と氷、鶯、螢、蜩、百日紅や椿なんかがよく出てきますね。あとは酒。とにかく酒。濁れる酒を飲むべくあるらし。

 

7.歌集を出したことはある?

 

 果たして出せるかどうか。出すより前にくたばるんじゃないでしょうか。

 

8.詞書はつける?つけない?

 

 つけたければつければいい。藤原良経や西行建礼門院右京大夫を見る限り、必要に迫られて湧き出すものに要らないという発想こそが無駄。ないほうが活きるのではと疑ってみること自体は大事だと思います。回答としては、必要に応じてつけることも厭いません。

 

9.好きな歌人は?

 

 〝好きな〟ということなので〝凄い〟という評価軸よりそちらを優先します。前登志夫岡野弘彦、永井陽子、高野公彦、長塚節若山牧水石川啄木、京極派、源実朝式子内親王、御子左家、西行源頼政源俊頼和泉式部紀貫之在原業平大伴旅人・家持、柿本人麻呂、このぐらいですかね。

 

10.「朝」で短歌を詠んでみる

 

   秋雨に降られし昨日も夢となり朝の生駒に日ぞあらはるる ──純弥、※昨日(きぞ)

 

11.短歌を詠むときは手書き?デジタル?

 

 手書きベース。と言いつつiPhoneで歌作することも多々あります。ノートはツバメノートの立罫17行、筆記具は鉛筆型のシャーペン、芯は2B指定。

 

12.短歌のために何か勉強してる?

 

 言うまでもないでしょう。ただこういうのを勉強だと思ったことはないし、人から「よく勉強している」なんて言われることにも違和感を禁じえません。好き勝手に選り好みしているもののどこが勉強だというのか。ただ心の求めに従っているまで。

 

13.「夜」で短歌を詠んでみる

 

   手遊びに過ぎゆく秋の硝子戸にうすく縋れる夜露はかなき ──純弥

 

14.句読点などの記号全般は使う?

 

 設問5に同じ。それらが日常的に用いられるのが現代語である以上、咎められる言われはない。問題は効いているかどうか。厭わず使います。修辞が効かなかったがゆえに袈裟懸けの憂き目に遭うのは、記号を排した歌でも同じことです。

 

15.掛詞や折句などの技法は使う?

 

 折句は挨拶歌において稀に。人の名前で二回仕掛けたことがあります。掛詞はたしかに駄洒落でもあるが、それ以上に魂の表出なのだということをどのように周知していくべきか、実作を通して模索中です。遊びをせむとや生まれけむ。

 

16.よく詠む季節は?

 

 すべて。強いていえば、夏が手薄気味。これはホトトギスや蛍、七夕ぐらいしか風物詩がないとされがちだった和歌以来の宿命であり、俳諧を経て有した近現代的な抒情によって初めて破りえたものだと考えています。

 

17.詠むのが苦手なモチーフは?

 

 苦手なところからも得意を引き出すのが歌の詠みようなのでそのようなことはないと言いたいし、詠みたくないものを敢えて詠んだ経験に乏しく返答に窮する次第です。一例として、固有名詞よりは普遍名詞のほうが遥かに扱いやすい感じがあります。

 

18.つい短歌に使ってしまう言葉は?

 

 和歌由来の和語。唐詩由来の漢語。俳諧由来の季語。上代から中世にかけて用いられていた助動詞。そんなところでしょうか。

植物や鉱物などのギリシャ語による学名なんかも語感と語源が気に入ることが多く、取り入れがちです。

 

19.自分の作品をひとつ解説してみる

 

   吹く風にのたうちまはる火のもとに敷きつめられた枯葉おだやか ──純弥

 

 よくある焚き火の景。人の手で集められた枯葉。その上に炎が燃え盛る。炎はそこに呼び起こされたことをどう思っているのだろう──。そして秋風が吹く。炎が危うく身をよじる。枯葉もいくらかは舞い上がった。しかし特に様子が変わったようには見受けられない。元よりその林のなかにあった枯葉たちは、人間の手に呼び起こされた炎に比べれば泰然としているようだ。ああ、私もこの枯葉のように落ち着いてみたいものだ──。

 そんな印象が秋風さながらに過ぎていくこの一首は、結句に配された形容動詞語幹用法の〝おだやか〟によって全体の相関関係に救いめいた何かが生まれている。

焚き火の炎も敷き詰められた枯葉も人の手によってそこにもたらされたことに変わりはないが、炎とは異なり枯葉のほうはそんなことを意にも介していないかのような筆致で描写されている。また、上から下へと流れるように向かっていく目線も、読み手として惹かれていく焦点が合っていて共感しやすいように思われる。

 

 自作を他者の作品として読んでみるとして、こんなところでしょうか。

 

20.短歌に関するこれからしてみたいこと。

 

 機密事項です。とりあえずある二人を巻き込んで過日〝幻燈歌会〟なる歌会を起こしました。これが何かの足掛かりになることを願って止みません。

 

 

 こうしてまとめて書いてみるのも乙なものですね。自分が何を迎えて何に叛いているのか、何となく見えてきたような気がします。相変わらず長い文章となりましたが、お付き合いくださった方には感謝を。

 

ではまた。

 

 

短歌における旧仮名遣いとは。

 

過日、葉ね文庫で短歌と歌会にまつわる自分の考えを知人に話すことがあった。そこで短歌と仮名遣いの関係について触れたが、それがきっかけとなってまた色々考えるに至ったので、書き留めておきたい。

 

以降は古典かなづかいで記します。なお、この文章における「新かなづかい」は現代かなづかいという呼び方もあり、「旧かなづかい」には歴史的かなづかい、古典かなづかい、正かなづかいという別称があります。ご留意ください。

 

***

 

旧仮名遣ひは思想か否か。さういふことを歌友と話し込んだことがあり、漠然と、それでゐて強く記憶に残つてゐる。彼は、自ら旧かなづかひで歌作してゐながら「旧かなは思想的に受け取られうるもの」といふやうな疑義的な立場を取つてゐた。

 

思へばこの時から、彼がいつかは旧かなづかひを暫定的に離れるときが来るだらうな、といふ気がしてゐた。などと云へばこれはいはゆる後出しジャンケンになつてしまふだらうか。

 

さて、私は新かなづかひによる文語、およびそれによつて形作られた短歌といふものが、内容の巧拙とは関係なくあまり好きではない。たとへば〝あはひ〟といふ古語を現代かなづかひで〝あわい〟と記した途端、それが境界を意味する古語なのか〝淡い〟なのかわかりづらくなる。また、あると信じたい古語特有の趣きらしきものも減殺すると思はれる。

 

さういつたあれこれが、現代かなづかひで文語を紡いだ場合に、雲霞のごとく現れる。それを自然な古語づかひだとは、今に至るまで思へないでゐる、といふのが〝あまり好きではない〟と感ずる理由といふか、根拠にならうか。

 

旧かなづかひといふものは、読む際に書いてあるままに読まうとしてしまふことで言語的重奏性を帯びるとか、半強制的に読者の読む速度を遅める働きがあるとか、そもそも日本語としての語源に基づいてゐるとか、前向きに捉へる向きがある。反面、現代語として見た際に後ろ向きに受け止められてゐる傾きも感ずる。

 

後ろ向きといふのは、古色蒼然としてゐて読みづらく、現代の生活に根付いてゐる日常語でもなく、いやに芝居がかつた、コスプレ的なものであるといふ印象が一般的な反応であらうか。

 

さうは云つても、現代短歌においては守旧的に見たらばとんでもないであらう〝独善的ルビ〟とでもいふべきものが存在してゐる。かくいふ私もよくやつてゐる。たとへば、菫青石に〝アイオライト〟とルビをふつてみたり、日本語文に英文をルビとしてふつてみたりするごときである。春日井建などはその先駆けと言へよう。

 

これと旧かなを用ゐて歌作することにわざわざ差を見出だすことのはうが却つて思想的なのではなからうか、と思つたりもする。現代において旧かなづかひといふものが日常語ではないといふ言説は、詩がそもそも日常から浮かぶなり離れるなり、一定の飛躍によつてこそ安らぎをもたらす性質を持つことがあるのを忘れてゐるのではなからうか。要は、浮遊できれば何だつていいのだ。詩が芝居でなくでなんであらうか。歌がコスプレでなくてなんであらうか。

 

ところで、旧かなづかひを未だに「正仮名遣ひ」と呼ぶ層がある。私もかつてはさう書いてゐたことがある。しかし、旧かなづかひのことを敢えて正仮名遣ひと呼ぶのもまた一種の〝思想〟なのではないかといふ気がして、やめた。

 

この言ひ方には、正負の構造とでもいふべきものが潜んでゐる。旧かなづかひに即することが正であるといふならば、新かなづかひに即することは負である。その考への行きつくところ、〝誤〟ともなりかねない。

 

かつて漢字を〝真名〟と言ひ、さうでない二者を〝仮名〟と言つた。真名は男のつかふものであり、仮名は女のつかふものであつた。真なるものと、仮初めのもの。さういふヒエラルキーは、もういい。

 

そんな気がしてゐる。

短歌の私性、本当に必要?

 

 歌は、単なる言葉の遊戯ではない。歌の心、歌の意味は、もう一つの新しい現実の出現なのだ。歌で開かれた舞台に似た世界は、ただ妻戸の向うの庭を見るといったものではない。それが藤色の歌なら藤色に世界が染められるのだ。赤なら、夕陽に野山が照らされるように、現実は茜色に染め変えられるのだ。心が月の光に澄んでゆくとき、実は、この世界が蒼く澄んでゆく。花の色を歌が詠みだせば、それは歌のなかに閉じ込められた花の色ではなく、この世がすべて花の色に包まれ、花の色に染められるのだ。 ──辻邦生西行花伝』P.355

ルビ:遊戯(あそび)現実(このよ)出現(あらわれ)

 

 もう随分前から、古典和歌と前衛短歌の親和性について考えている。まず始めに前登志夫岡井隆の作品より、前衛短歌の本質を示していると思われる二首を挙げておきたい。

夜の庭の木斛の木に啼くよだか闇蒼くしてわたくし見えず ──前登志夫『流轉』〝形象〟
※木斛に〝もくこく〟のルビ

〈私〉の上に斜めに線引きていざ還りなむ水の向かうへ ──岡井隆マニエリスムの旅』〝騒ぎ止まぬ定型格子〟
※〈私〉に〝わたくし〟線に〝すぢ〟のルビ

 前は夜の庭の木斛の樹上に鳴きとよむ夜鷹と半ば同化しつつ、闇は蒼いものであるゆえに〝わたくし〟が見えないと歌い、岡井は〈私〉の上に斜線を引いて、さあ帰ろうじゃないか、「水の向こう側へ」と歌った。

 

いざ還りなむ、というのはもちろん陶淵明の帰園田居に由来する言い回し。「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす。」は与謝蕪村の俳号の由来としても有名なものだ。

 

衒学はさておき水の向こうに、という恐らくは喩であろうこの結句については、私にとっても難しい。固体であることを放棄し、流動的な液体になってしまおう、という感覚的な解釈が果たして許されるか、どうか。

 

 さて、前置きが長くなったが本題に入ろう。ひとまず最近の私のツイートを組み合わせ、そこから大きく敷衍したものをここに記したい。以降は歴史的仮名遣いを主軸とし、一人称も都度変わります。

 

 そんなわけで、現在わたしは近代短歌以降の〝私性〟なるものを半ば誅戮するつもりで短歌をやつてゐる。何より和歌に学んでゐる。共同幻想・詩的普遍のためには私性など軛以外の何者でもない。※軛(くびき)

 

そのためには私性の枠に収めきることのできない文体を構築、あるいは獲得するのが不可欠であり、また最短経路だと思ふ。前衛短歌からわれわれ歌詠みが本当に引き継ぐべきは、その表現技法のみにあらず。その精神性、私性の壁を穿ち、私性の壁を越えむとしたその心意気なのではないだらうか。

 

前衛短歌、もしくは前衛期の短歌は、確たる自己を否定し、拒絶したことでかへつて普遍性を取り戻したといふ観点から眺めれば、明らかに古典和歌に漸近してゐる。回帰してゐる。

 

直前にある近代短歌の存在、それに対するアンチテーゼとしての意味合ひが大きかつたあまり、そのあたりを見落としてはゐないだらうか。とはいへ、近代短歌が個人に執するあまり普遍性が全くなかつた、などと十把一絡げに述べるのも愚の骨頂には違ひないのでここは難しい点ではあるとも思ふ。

 

 いづれにせよ、かつて古典和歌は特定のイメージを喚起する序詞、枕詞、掛詞、縁語、本歌取りの技法を用ゐることで言語による共同連想のもとに成り立つてゐたことは、渡部泰明『和歌とは何か』鈴木日出男『古代和歌の世界』の二冊を読めば誰にも知られる話だらう。

 

和歌といふものは個人の文学であると同時に集団の文学でもあつたわけだ。万葉集のなかでさうなるまでにも紆余曲折あつたやうだが、よく集団の抒情から個人の抒情に変化したとして取り上げられるのが、万葉集編纂者である大伴家持(おほとものやかもち)の作品群だ。彼は以下の特色ある三首と左註を、詞書とともに万葉集巻第十九の巻末に据ゑて残した。

二十三日、興によりて作れる歌二首

春の野に霞たなびきうら悲しこの夕光にうぐひす鳴くも ※夕光(ゆふかげ)

わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも ※夕(ゆふべ)

──『万葉集』巻第十九、巻末

・二十三日、気が向いて詠んだ歌、二首。
・春の日の野に霞がうつすらとたなびいてゐて、なんとなくもの悲しく思はれてきたやうだ。ましてや夕影の射すこの景色に、鶯がその澄んだ健気な鳴き声を添へてゐるのだから──
・私の家の庭に群がつて生えてゐる笹や竹が、風に吹かれて微かな音を立ててゐるのが聞こえてくる。そんな静寂の夕べであることだ──

 

二十五日作れる歌一首

うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しも独りしおもへば

春日遅遅として、鶬鶊正に啼く。悽惆める意、歌にあらずばら撥ひ難し。よりてこの歌を作り、式ちて締緒を展べたり。(以下略) ──同上

・二十五日に詠んだ歌、一首。

・うららかな春の陽射しのなかを一羽の雲雀が空高く上がつてゆく。そんななか、独り寂しく物思ひに耽つてゐると、私の心に根を下ろした悲哀もまた深まつてゆくのであつた──

・春の日は緩やかかつ穏やかで、折しも雲雀が鳴いてゐます。心がだんだん感傷へと傾いてゆくのを、歌を詠まずには振り払へさうにありませんでした。そこで私はこの雲雀の歌を作ることで、心にできてしまつた固い結び目をほどいたのです。

 

 私はこの家持の左註を、どんな歌論よりも重視し、自らの訓誡としてゐる。願わくは私もこのやうに自然な動機で歌を詠みたいと思つてゐるが、なかなかさうもいかない。

何よりこの春愁三首といはれる作品群を読むとき、あたかも自分が鶯の鳴き渡る春霞の夕べに、竹の葉が風にそよいてゐる庵の庭に、陽射し麗らかな春の日に雲雀を聴きながら物思ひに耽つてゐるかのやうな錯覚を覚えてしまふのだ。ここではひとりの人間が春の憂愁に向かつて佇む様が、誰にとつても身近な情景であることによつて剋明に立ち上がつてくる。

 

 さうして次なる和歌集である古今和歌集では、後期万葉において家持が集団というより個人の感懐を朗らかに歌ひあげた現象よりも、彼の持つてゐたやうな優美な詠風と伝来の修辞技法へと傾いてゆくこととなる。掛詞や縁語を用ゐる言葉遊びめいた修辞に重きが置かれ、季の題に即して詠まれる題詠が増える。さらには屏風に描かれた絵を見て詠む屏風歌など、万葉歌に濃厚だつた実景や実感からやや離れたところで歌が詠まれるやうになつたらしい。これも彼ら王朝人が万葉歌の実感をもって享受することが難しくなつたといふことなのかもしれない。

 

では古今の歌は退嬰だつたのか。答へはもちろん否だ。古今和歌集では、枕詞をそのまま組み込んで序詞とし、しかも掛詞にまでしてしまふなどといつた言語を絶する手練手管が形成された。この背景にあるのが、共同言語であり、共同連想なのだ。

 

誰かが思ひ、と書き記したとき、そこに恋ひの〝火〟を見出す。それを誰かが歌に詠む。それが広まる。周知のこととなる。さうして掛詞は歌詠みのあひだで共有財産となる。それはあたかも燎原を渡りゆく烈火のごとく。

 

今は昔、夜空に神々しくかかつた三日月を、誰かが破魔の霊験あらたかな梓の木で作られた弓のやうだと思ひ至る。また別の誰かは弓に弦を張ることを心に描き、夜空に欠けた月がかかることをも〝梓弓張る〟と言ひなす。そしてまた別の誰かが、梓弓張るの〝はる〟の部分に季節の〝春〟を掛けることを思ひつく。それを誰がが歌に詠む。梓弓といえば春。さうして連想もまた歌詠みのあひだで共有財産となる。

 

志賀の山ごえに女のおほくありけるによみてつかはしける

梓弓はるの山辺を越えくれば道もさりあへず花ぞ散りける ──紀貫之古今和歌集』春歌下

・志賀の峠を私が越えてゐたとき思ひがけず大勢の女性に出会つたので、彼女らに詠んでお贈り致しましたその歌です。

・(梓弓を張るやうな形をした月が煌々と照らしてゐる、)春の山辺を越えてくると、道を避けて通ることさへ難しいほどに(貴女たちといふ)美しい花が散り敷いてゐることでした。

 

共同言語の内側に入つてみると、上述したやうに〝梓弓〟と言はれるや即座に夜空に浮かぶ三日月を脳裡に思ひ描いてしまふやうになる。そのとき、あなたははすでに古典和歌といふ共同言語空間の一員となつてゐるのだ。枕詞や序詞は意味がない空疎な言葉なので訳さなくていい、といふのは正直いふと学校教育の誤謬のひとつだつたのではないかと今は考へてゐる。昼間に送つた歌だらうから月がかかつてゐるわけがないのかもしれないが、峠を越えるまでの夜にかかつてゐた月を放り込んだのだと考へれば、合点がいかないこともない。意味の失はれた枕詞といへど、そこにある共同連想そのものは微かに残つてゐることだらう。

 

風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらん ──『古今和歌集』雑歌下

※夜半(よは)

 

・もし風が吹いたならば、海の沖の白波が立つといふ、そんな名前を持つ恐ろしい竜田山を、貴方はひとりでいま越えてゐることだらう──

 

 白波が立つ、竜田山といふ掛詞でもあり、そのやうに引つ掛けることによつて共同言語としての竜田山を引き出すための序詞でもある〈風吹けば沖つ白波〉だが、歌ひかけてゐるはうのいまにも難破してしまひさうな不安が託されてゐるのがお分かりいただけるだらう。さうして、私がいま味わつてゐる不安といふ名の荒波が、竜田山を歩いてゐるだらう相手の姿に覆ひかぶさつてゆくのだ。そしてこの一首は、山に潜む闇の荒波から想ひ人を守らむとて詠まれし一首に他ならない。

 

 新古今和歌集に端を発する先行作を踏まえて重ね合はせる本歌取りの技法も、このやうに読み手に特定のイメージを惹起することで重奏効果をもたらす点では何ら変はりはないが、長くなりすぎるので今回は割愛しておく。要するに、古典和歌といふのは決まつた言ひまはしや特定の言葉が用ゐられることによつて一定の連想を生むため、参加する誰もが均一な読みを得られる。何より読者が歌における視点そのものとなりやすい構造を持つてゐたといふことが言へるだらう。有り体にいふならば、そこでは読者が舞台の主役となりうるわけだ。

 

 さて、さういふ積み重ねがいつしか単なる先行作品の形骸的な焼き増しに等しい状況になつてゐたところに風穴を空け、唐詩や和歌、日記文学や随筆、歌物語などを下地にした共同言語、即ち歌ことば(現在いふところの歌語および雅語)を知らずとも短歌を詠めるやう改革を果たしたのが正岡子規であり、アララギや明星の歌人だつた──、といふのが大雑把なあらましである。

 

かくして共同言語に寄りかかつた王朝和歌なる閉鎖的文学は近代短歌の鋭利な匕首によつて息の根を止められた。そして自らの言葉によって自立する開放的文学の時代が幕を開けたわけだが、どうもその代償にあるものを失つてしまつたらしいのだ。

それが、先ほどから連呼してゐる〝共同性〟に他ならない。上で〝読者が視点そのものになりやすい〟といふことを書いたが、そのこととも深く関係してくるだらう。

 

それぞれが〝自分独自の〟言葉で、〝自分独自の〟人生や境涯を歌ひあげる。大いに結構なことだらう。何も悪くないではないか。さう思ふ向きがあるのは当然至極のことだと思ふ。

 

 そこでひとつ問ひたい。個人の体験に即した短歌と、共同言語による普遍を狙つた短歌と、どちらの飛翔力が上なのだらう。どちらの浸透力が上なのだらう。

 

他人事として客観的に、冷静に読めるものが果たして本当に詩として優れてゐるのだらうか。そこに書かれたことがあたかも我が身に降りかかつたことのやうに感ぜられることにこそ、短詩型文学ならではの可能性が、衝撃力が秘められてゐはしないだらうか。

空洞があつてこそ読み手による反響と残響が生まれるはずの、虚空に打ち立てられた歌の伽藍に、〝私〟といふ実体が詰まつてゐたとする。そこでは共鳴すべき読み手の声が〝私〟といふ実体の存在に押し負けてしまひはしないだらうか。

 

われわれ現代短歌の詠み手は、実は知らず知らずのうちに先人の遺産を──言葉にあらず、その心を──自ら手放すといふ途方もなくもつたいないことをしてゐるのではなからうか。そして何より、〝自らの言葉〟とはいつたいどこにあるのだらう。日本語を使つてゐるその時点で、我々はすでに日本語といふ共同言語空間に巻き込まれてゐるのではないか、といふ疑ひが脳裡を掠める。

 

と、ここまで書いてきてひとつの疑念が首をもたげる。近代の個人主義を通つて、人々は表現を介して語られる個人の物語については興味深く読めこそはすれ、もはや言語によつて織り成される共同の幻想に浸る気などさらさらないのではないだらうか、といふことである。夢はもう見厭きた、そんな声が私の内側に静かに響かふ。ここにひとつの虚ろがある。

 

だとしても、それでも私は抵抗する。何故なら他ならぬこの私が、多くの人とまだもう少し歌の世界に夢を見てゐたいからだ。古へびとがかつて身命を賭して遺した歌に潜んでゐる意志の力を、忘れたくないからだ。

 

橘の匂ふあたりのうたた寝は夢も昔の香に匂ひける ──藤原俊成女(女=娘)

春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空 ──藤原定家

しづかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞかなしき ──式子内親王

 

以上三首、ともに『新古今和歌集

 

「生きる道を切り開くこと、と言い直してもいいかもしれません。現身の人間はたえず無明の闇に迷います。手さぐりで道を求めなければなりません。歌は、そういう手さぐりの一瞬一瞬に、ぱっと輝く松明のあかりのようなものでありたいですね。遠くまで照らす光明もあれば、足もとしか照らさない光明もあります。とまれ、歌は光明です。」 ──辻邦生西行花伝』P.414

ルビ:現身(うつせみ)、松明(たいまつ)光明(あかり)

 

 やはり自分の言葉なんてものは、俺にはない。どんな歌が生まれてこようと、それは先人の所産を通して湧き出してきた返歌に過ぎない。私が歌のなかで哀しむとき、そこで哀しんでゐるのは私であつて私ではない。歓びにしたつてきつとそれは同じことだらう。

 

たつたいま、返歌に過ぎないと言つた。それは諦観ではなく、先人の歌業を意識して歌を詠むとき、私はすでに和歌の歴史を担ふ一員となつてゐる。なることができる。孤独なやうでゐて決して孤独ではないその状態が、何よりも嬉しいのだ。──独り釣る寒江の雪──私の知り得ぬ何らかの形で孤独の無明長夜を歩まうとする修羅の歌詠みとは、もしかすると馬が合はないこともあるかもしれない。

 

 言葉の上で、ただ花が咲き、月が澄み、木の葉の散る山里が寂しいのではない。まず心が花の歓喜に変成し、心が我を忘れて踊り上るのだ。嬉しさに満たされるのである。また時に山里の寂しさに心はたださめざめと泣くのである。ここには賢者風に冷たく心の動きを見る眼などない。あるのは笑う心、泣く心だけだ。本当に全身全霊が桜の花の中にたち迷う。全身全霊が秋の夕暮れのあわれに打ちひしがれる。この本当にということが大事なのだ。本当に変成し、桜になってしまう。秋の寂しさになって泣いている。物狂いとはこのことであり、このことを除いては、歌の心はないのである。 ──辻邦生西行花伝』P.588

ルビ:歓喜(よろこび)変成(へんじょう)賢者風(さかしら)全身全霊(このみすべて)

 

 以上の考へから私は、短歌において作者、すなはち〝わたくし〟が介在しない、または後退してゐることによる飛翔力、浸透力に賭けてみたい。古典和歌にコミットするといふことは、本質的にはさういふことなんだと思ふ。そこに時代の壁は関係ない。いづれにせよ、何に学ぶにしてもその表層だけを浚つて良しとするわけにはゆかないだらう。僕は、敷島の和歌の浦なる鳥居の奥に昏々と眠つてゐる核心を、真髄を、借り受けて歌を詠みつづける。

そんなこんなでこれが今の僕に出せる、最良の結論なのだろうと思っている。今のところは。

 

 

和歌とは何か (岩波新書)

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古代和歌の世界 (ちくま新書)

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西行花伝 (新潮文庫)

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語彙消失歌会と穂崎円歌集『ヴァーチャル・リアリティー・ボックス』

 

ご無沙汰してます。田上純弥です。iPhoneから更新のしづらい仕様のJUGEMを捨てて、僕の観測範囲で短歌界隈のひとが比較的多そうなこのはてなブログを始めました、というのはTwitterでもお話しした通りです。そしてブログという場に長文をしたためるのは相当に久しぶりなので、どうなることやら。そして先回りして書いておくと、書き手としての一人称は統一しませんのでご了承ください。

 

さて、昨晩ツイキャスでお話したように昨日はゆとり世代短歌企画〝YUTRICK〟主催のなべとびすこさん(@nabelab00/@Yutori_Tanka)とWeb短歌連作サークル誌〝あみもの〟編集人の御殿山みなみさん(@1ookat2/@tanka_amimono)のお二方が企画された〝語彙消失歌会〟なるものに出席して参りました。

 

趣旨としては、歌会において「しっかりしたことを喋らなければならない」というハードルを下げることを主な目的としているようです。

 

歌会の形式ですが、「コワい」「アツい」「わかる」など様々な〝消失語彙〟のカードを机に置いておき、司会者による作品の読み上げ(披講、朗読とも)を受けて参加者が思い思いのカードを自分の前に掲げ、それを見てとった司会者が掲げたカードに即して発言を求める、という形式でした。

 

持ち寄る作品は、自作選二首と他作選一首。特筆すべきポイントは、他作選も「歌会の詠草として扱われる」こと。この歌会がいわゆる短歌作品批評会としての歌会というより「短歌作品感想会」であるがゆえに取れる方法ではないでしょうか。

 

この点については他作に先入観なく触れられて新鮮だった反面、歌会である以上は自作の批評パートと他作の感想パートは分けた方が望ましいのでは、という疑問は感じてしまった、というのが正直なところです。

 

さて、ここから話が変わります。

 

他作選一首で、参加者のひとりが持参してきたこの作品に強く惹かれました。

 

けれどあなたに降りかかる花うつくしく また咲くために春の部隊は

 

取り戻した語彙で色々と僕の感想を書くと、

春の部隊というのはこの〝あなた〟が率いているもの。春という季節がこの〝あなた〟を中心にもう一度巡ってくるだろうということが示唆されている。結句を言い差しで止めた表現なので断定は出来ませんが、〝降りかかる花〟ということなので春という季節、そして花は散ってしまった、という解が適当でしょうか。

 

散ろうが咲こうがこの〝あなた〟の美しさが永遠に保証されている感じに僕は惹かれました。聞けばこの一首、すでに積んでいる穂崎円さん(@golden_wheat)の私家版歌集『ヴァーチャル・リアリティー・ボックス』に収録されているとのこと。取り急ぎ読み通したので、僕が思う秀歌を以下に引きます。

念のため先に言っておくと、本歌集は連作によって仮名遣いの新旧が異なります。

 

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人混みを肩いからせて進むときひとりひとりが既に火柱‬

 

→結句の体言止め、そう見えるあるいはなっているという解でいいのか。だとすれば視点の人物は?視点の人物もまた、火柱のひとつだろうか。鮮烈ながら粗削りの感じも。

 

‪冬の夜は暗いね。眠りつづけてる君のかわりに喋っているね。‬

 

→視点を担う人物はそれでも平然と起きていて、眠りっぱなしの相手を責めるでもなく、代わりに喋っているね、という。結句の文末にまで付された句点が優しさと充足感をもたらす一首。

 

たましいの欠けてうまれてきたことを男や女ともうよばないで‬

 

男だろうと女だろうとそれはただ等分に魂が欠けて生まれてきたに過ぎないのだろうか。これも既成概念からの優しい解放だという気がする。

 

‪Fragile-Handle with care/This machine is made of Sakura,Sakura ※全体にルビ:取扱注意の札をくつつけて 君は桜でできてゐたのか‬

 

 

英語に疎く初見では読めなかった。つい先日大手拓次について調べた際、フラジャイル(脆弱な、脆い、壊れやすい)という語彙を得たので今回引かせていただく。※作品中ではwithとcareのあいだにスペースがありませんがそれは誤植とのことで、作品の意図に沿った形で引用します。

 

フラジャイル/ハンドル・ウィズ・ケア/ディス・マシーン/イズ・メイド・オブ/サクラ、サクラ

 

調べとしてはこのような区切りになると思う。逐語訳的な書き方をすれば「配慮のない扱いに脆弱です。この機械は桜、桜によって作られています。」という具合になるのだろうが、ご覧の通りルビはそんな散文的なものではない。

 

次にルビだけで読んでみる。

 

取扱注意の札をくつつけて 君は桜でできてゐたのか

 

これだけとっても明らかに上手い。旧仮名遣いを用いることによって助動詞「た」の気づきの効用が増幅されている、というのは私の旧仮名口語体に対する主観なので置いておくとして、驚きは得られると思う。

 

この修辞だと〝きみ〟が自らの手でもって「私は桜でできています」という札、レッテルを貼ったことになるため、自分に〝くつつけられて〟の受身形ではないことがやや気になるがどうなのだろうか。この一首からどういう意味を拾うかは人それぞれだと思うが、どうも私にはこれが寓意に思えてならない。

 

結句を読んで私たちはある唱歌を思い出す。さくら、さくら、弥生の空に、見渡す限り……さくら、さくら……

 

読み手がこの唱歌を思い出してしまうことまで含めて、この一首は見通しているのではないか。〈壊れ物注意〉の札を自分からぶら下げて、自らが桜で作られていることを恥じも疑いもしない絡繰人形、オートマトンの姿が目に浮かぶ、という読み方は穿ちすぎだろうか。

 

もう一点、この歌集について書いておきたいことがある。それは、デザイン。そしてレイアウト。加藤治郎の最新歌集『Confusion』がいぬのせなか座による作品レイアウトで話題を読んだことは記憶に新しい。

 

この『ヴァーチャル・ボックス・リアリティー』にもそのような視覚的訴求性が見受けられる。あるときは黒いノイズに作品が囲まれたようなデザイン、あるときは黒く塗り潰されたページに白色で記された作品群。レイアウト詩歌というものは果たしてどこまで羽ばたくことができるのでしょうか。

 

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この二つの作品が絵とともに織り成す詩情にいまとても惹かれている、そんな告白とともにこの項を終わりたいと思います。

 

通読有難うございました。またいずれ。