Am I Highly Sensitive Person?
HSS型HSPという概念を知り、自らの相剋と矛盾に満ちた特性に合点が行きそうな気がしている。
— 流霞 (@Nostalfire_) 2019年9月23日
ADHDとは違ったということか。薬が要るという衝迫は今のところない。仕事で変わったことを要求されることがないからかもしれない。
秋の空気を浴びて以来、どちらかといえば静かに鈍く研ぎ澄まされている。
さっき程度について引っかかった設問を答え直したら案の定スコアが上がった。
— 流霞 (@Nostalfire_) 2019年9月23日
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HSP(Highly Sensitive Person)という特性を知った。予てから疑っているADHD特性の有無は未だわかっていないままだが、むしろこのHSPこそが虚無感、徒労感、躁鬱感の正体だったのではないかと考えている。
また、国語ばかりが得意であったこと、いちいち日本語の語源に遡行する趣味を持つこと、これらの特性を鑑みてもどうやら自分がHSPであることは確実な気がしている。
しかし、プライベートにおいて遅刻癖のあることと片付けが絶望的に不得手なこと、忘れ物/物忘れの多さ激しさを鑑みるに、自分がADHDであるのではないかという疑念は晴れない。
幼少期、母を悩ませた特性のうち最も顕著なものに、「靴下の縫い目と衣服のブランドタグ/洗濯タグを激烈に嫌う、特に後者は切り取る」ということがあり、その裏返しとして現在は酒器や食器に格別の思い入れと愛着を持つような特性を得た、とも考えられなくはない。
このうち前者は、ADHDの子供が持つ特性のひとつであるようだ。それにしても、父親に与えられた名前にこれほど縛られるとは、と日々思う。混じり気のない、という意味だ。
高貝弘也の『白緑』にある「授粉」という詩に、
そら いのちを命づけて
ただ言葉には出さないで
※命に〈な〉のルビ
という一節があるが、名前をつけるというのは本当に恐ろしい行為だと思う。そのあたりは、映画『ゲド戦記』を観た当時からずっと考えていることだ。
最近精神が悪くなってもどうにか救われているのは、朝吹真理子の『TIMELESS』を通してThe Durutti Columnの音楽、ひいてはVini Reillyという存在に出会ったことが極めて大きい。どこまで神経が尖ろうが擦り減ろうが初夏の陽射しを浴びられるため、内面に余裕が出来た。
そういう時間の合間に東山魁夷の絵を眺める。愛用の器やグラスで酒を飲む。それで大抵の闇を押し流すことが出来ている。
これからも美の享受者として死なずに生きてゆきたいものだ。そしてその美を、歌という器によって媒介せねばならない。世界に向けて。