叢雲堂春秋

古典詩への憧憬を基軸に、書評と随想と ── If you're also a stargazer, feel the emotion. Think the thought. ──

ある日の世迷い言

 

かつて太宰を読んだ。芥川を読んだ。そうして、いまは、なにも読まない。

 

大嘘である。こんな下手な韜晦もないだろう。そもそも読まないのではなく、読めなくなったのではなかったか。19歳の頃に職にあぶれ、その後の人生を希望乏しき自殺ありきのものに貶めて、ただ小説を読むことを己の義務とした。理由はない。ただの強迫観念だった。傍目には怠惰としか映らないその様は実父から複雑な心境をもって眺められた。自分を毒虫のようだと思った。私に妹はいない。弟もいない。兄も、姉も。

 

実用書を読むでもなく啓発書を読むでもないその期間は、紛れもなく今の詠歌の礎になっている。やがて中也と啄木を経由し、短歌をノートに書くようになった。名詞頼みの、下手な歌だった。体言止めが持つ本当の効用も知らなかった。いつしか古典和歌に回帰した。定家を再発見し、西行に弟子入りし、大伴家持いうところの「悽惆の意、歌に非ずば撥ひ難し」の文言を自らの脊梁に据えた。それはひとつの寂寥であったかもしれない。少し前には京極派和歌を希求していた。切望していた。景と情との中に自我をすっかり溶かしこんだその歌風は現代の最下層を生きる私に無限の安らぎをもたらした。

 

それすらも離れて、時には現代詩を読んだ。高貝弘也に痛く肩入れした。近代詩も読んだ。美術に多少明るくなった。和歌の美意識を具現化した琳派を、詠歌に逆輸入するにはどうすればいいか、ということを辻邦生の『嵯峨野明月記』と『西行花伝』を通して考えた。小説を読まねばという義務感がこの身を去ったことはついぞなかった。

 

自分の詠歌が時代に求められていないことを知るのにさほど時間はかからなかった。発表する必要性を感じなくなり、歌そのものをめっきり詠まなくなった。といって歌が嫌いになったわけではない。ただこのうたびとは、自然の真っ只中に身を置いていなければ歌の一首も詠めないらしかった。夢幻の抽象に憧れるのに自然の具象を要するとは、まだまだ修行が足りないようだった。