回答編〝#短歌の人がいいねの数だけ短歌の話をする〟
昔でいうチェインメール、DECOLOGなんかでもこういう文化はありましたね。異なるのは趣味というかやはりクラスタに依存するため多少内容が生産的だという点でしょうか。それとハッシュタグはチェインメールとは違い自主的に参加するという点も大きいですね。
そんなわけで、上記の画像が〝#短歌の人がいいねの数だけ短歌の話をする〟というタグとともにTwitterで回ってきたので、回答編です。20を越えそうな感じですが、超過分に関してはツイートに紐付けするかこちらの記事に追記するか未定です。では前置きはここまでにして、本題に入ります。
1.短歌はいつから詠みはじめた?
2011年、当時19歳の頃、石川啄木に影響を受けて。こんな内容でええんやったら俺でも詠めるやんけ、と生意気なことを軽々しく思っていましたが、啄木の歌風はああ見えてバランス感覚が抜群でしたね。いま当時の作品を見返しでもしようものなら相当な噴飯ものです。
2.上の句と下の句どちらから思いつく?
もうそういう段階は抜けました。使いたい言葉、歌いたい情景、それらをどこに配置したいか。そんな次元の話です。フレーズで上の句なり下の句なりが丸ごと連鎖的に浮かぶときもありますが、その場合の多くは上の句からでしょうか。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。理想は三十一音の連鎖発生です。
3.実景・虚構どっちをよく詠む?
虚実皮膜、創作においてそれは表裏を一にするもの。区分することに意味は乏しいと思います。ですが、虚構にも色々ありますね。私的な事実に反するものである嘘、作者の想像の産物を中心に据えたものとしての幻想。嘘と幻想はやや異なります。
そういった意味では幻想をしばしば歌います。前者たる〝実〟については実景を詠む、というよりはむしろ実感を詠むという風に捉えています。
4.文語・口語どっちをよく使う?
この区分もそろそろ忘れてみませんか。現代の日本語というのは、この国の歴史の全てを包括します。文語の中にも口語的な文脈はあるし、口語の中にも文語的な文脈はあります。とまあ、そんな身を躱す歌論めいたことは置いて、私自身は口語と文語の混淆体を取ることが多いです。かといって自らこれを混淆体などと意識してしまえば、言葉の身体化は遠のいてしまうことでしょう。
何はともあれ、二項対立の図式からは見落とすものが多すぎる。可能性を削ぎ落とすのが二元論。その鎌首に頭から委ねていいものなど、ありはしない。
5.横文字や外国語を短歌の中に使う?
現代人である以上、それらが全く入ってこないというのは、自らが生きる時代への一種の拒絶ですよね。拒絶から生まれる詩もありますが。ともあれ、短歌詩型と必ずしも相性のいいものではないだろうと思います。ですがそれも比重と使いどころではないでしょうか。
思うに、俗語に長けた西行や定家なら何の憚りもなく使ってみせることでしょう。
6.どんなモチーフをよく詠む?
自然詠が多いですね。あと思想詠。思想というと余計な意味が入るので、観念詠、あるいは抽象詠とでも申しましょうか。いつかの「短歌往来」でも書きましたが、四季の移ろいと心の動きが主たるテーマです。
それに応じたモチーフが自分にとっては自然や生物、つまりは普遍名詞ということになるでしょうか。月と植物はよく詠みます。詠むというか、向こうから呼びかけられるので抗えないのです。細かくいえば火と氷、鶯、螢、蜩、百日紅や椿なんかがよく出てきますね。あとは酒。とにかく酒。濁れる酒を飲むべくあるらし。
7.歌集を出したことはある?
果たして出せるかどうか。出すより前にくたばるんじゃないでしょうか。
8.詞書はつける?つけない?
つけたければつければいい。藤原良経や西行や建礼門院右京大夫を見る限り、必要に迫られて湧き出すものに要らないという発想こそが無駄。ないほうが活きるのではと疑ってみること自体は大事だと思います。回答としては、必要に応じてつけることも厭いません。
9.好きな歌人は?
〝好きな〟ということなので〝凄い〟という評価軸よりそちらを優先します。前登志夫、岡野弘彦、永井陽子、高野公彦、長塚節、若山牧水、石川啄木、京極派、源実朝、式子内親王、御子左家、西行、源頼政、源俊頼、和泉式部、紀貫之、在原業平、大伴旅人・家持、柿本人麻呂、このぐらいですかね。
10.「朝」で短歌を詠んでみる
秋雨に降られし昨日も夢となり朝の生駒に日ぞあらはるる ──千景 昨日(きぞ)
11.短歌を詠むときは手書き?デジタル?
手書きベース。と言いつつiPhoneで歌作することも多々あります。ノートはツバメノートの立罫17行、筆記具は鉛筆型のシャーペン、芯は2B指定。
12.短歌のために何か勉強してる?
言うまでもないでしょう。ただこういうのを勉強だと思ったことはないし、人から「よく勉強している」なんて言われることにも違和感を禁じえません。好き勝手に選り好みしているもののどこが勉強だというのか。ただ心の求めに従っているまで。
13.「夜」で短歌を詠んでみる
手遊びに過ぎゆく秋の硝子戸にうすく縋れる夜露はかなき ──千景
14.句読点などの記号全般は使う?
設問5に同じ。それらが日常的に用いられるのが現代語である以上、咎められる言われはない。問題は効いているかどうか。厭わず使います。修辞が効かなかったがゆえに袈裟懸けの憂き目に遭うのは、記号を排した歌でも同じことです。
15.掛詞や折句などの技法は使う?
折句は挨拶歌において稀に。人の名前で二回仕掛けたことがあります。掛詞はたしかに駄洒落でもあるが、それ以上に魂の表出なのだということをどのように周知していくべきか、実作を通して模索中です。遊びをせむとや生まれけむ。
16.よく詠む季節は?
すべて。強いていえば、夏が手薄気味。これはホトトギスや蛍、七夕ぐらいしか風物詩がないとされがちだった和歌以来の宿命であり、俳諧を経て有した近現代的な抒情によって初めて破りえたものだと考えています。
17.詠むのが苦手なモチーフは?
苦手なところからも得意を引き出すのが歌の詠みようなのでそのようなことはないと言いたいし、詠みたくないものを敢えて詠んだ経験に乏しく返答に窮する次第です。一例として、固有名詞よりは普遍名詞のほうが遥かに扱いやすい感じがあります。
18.つい短歌に使ってしまう言葉は?
和歌由来の和語。唐詩由来の漢語。俳諧由来の季語。上代から中世にかけて用いられていた助動詞。そんなところでしょうか。
植物や鉱物などのギリシャ語による学名なんかも語感と語源が気に入ることが多く、取り入れがちです。
19.自分の作品をひとつ解説してみる
吹く風にのたうちまはる火のもとに敷きつめられた枯葉おだやか ──千景
よくある焚き火の景。人の手で集められた枯葉。その上に炎が燃え盛る。炎はそこに呼び起こされたことをどう思っているのだろう──。そして秋風が吹く。炎が危うく身をよじる。枯葉もいくらかは舞い上がった。しかし特に様子が変わったようには見受けられない。元よりその林のなかにあった枯葉たちは、人間の手に呼び起こされた炎に比べれば泰然としているようだ。ああ、私もこの枯葉のように落ち着いてみたいものだ──。
そんな印象が秋風さながらに過ぎていくこの一首は、結句に配された形容動詞語幹用法の〝おだやか〟によって全体の相関関係に救いめいた何かが生まれている。
焚き火の炎も敷き詰められた枯葉も人の手によってそこにもたらされたことに変わりはないが、炎とは異なり枯葉のほうはそんなことを意にも介していないかのような筆致で描写されている。また、上から下へと流れるように向かっていく目線も、読み手として惹かれていく焦点が合っていて共感しやすいように思われる。
自作を他者の作品として読んでみるとして、こんなところでしょうか。
20.短歌に関するこれからしてみたいこと。
機密事項です。とりあえずある二人を巻き込んで過日〝幻燈歌会〟なる歌会を起こしました。これが何かの足掛かりになることを願って止みません。
こうしてまとめて書いてみるのも乙なものですね。自分が何を迎えて何に叛いているのか、何となく見えてきたような気がします。相変わらず長い文章となりましたが、お付き合いくださった方には感謝を。
ではまた。