叢雲堂春秋

古典詩への憧憬を基軸に、書評と随想と ── If you're also a stargazer, feel the emotion. Think the thought. ──

ナタカ歌集『ドラマ』についての覚え書き

 

 巷で話題のコミケよろしく文学もすっかり個人頒布で販売される時代になった今日この頃ですが、皆様は文学フリーマーケット(通称〝文フリ〟)などに立ち寄られたことはあるでしょうか。私自身は実はまだ行ったことがなかったりします。

 

 さて、そんな文フリでも販売されていたナタカさん(Twitter:@Utanataka)の歌集『ドラマ』を今回はご紹介したく筆を執った次第です。私がTwitterに短歌を投稿しはじめた頃からの相互フォロワーで、その延長でたまにお酒を飲みに行ったりするようにもなりました。

 

元々著者の作る短歌を僕が好きだったことに端を発する間柄なので、やや贔屓が入ってくるかもしれませんがご了承いただければと思います。

 

私自身は著者の全体を通した作風を肌寒い日の陽光、乾いた優しさといった感じで捉えていますが、そのあたりの感性は作品集として纏められたことでより明瞭になっているようです。というわけで、『ドラマ』感想、参ります。

 

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無防備を集めて少し陽がたまる あくび はなうた うたたね ねこぜ

るるるると電話が鳴るけど今ちょっと泣いているるる出られないるる

 巻頭歌二首。猫が寝ているような印象も受ける一首目、物憂い春の一幕。人の持つ脆さが縷縷として溢れ出したかのような二首目は、技巧的。初句の〝るるるる〟は確かに電話の着信音だろうが、四句以降の〝るる〟は間に鳴っている着信音のようでもあり、鼻を啜る音のようにも思われる。

 

笑わせる役をしている弟の隣で笑う役をしている

 日常というものは、概して演技めいた色彩を帯びるもの。不全感が読ませる一首。

 

胸に星、不時着したんだってねえどうだきれいな炎だったか

 だってねえ、どうだ、きれいな、炎だったかと長音と拗音が心地よく響く一首は、不思議な美しさを持って胸に迫る。読んでいるこちらがこの一首に問いただされているかのような錯覚とともに。

 

蝶になるためのわずかな液体が蛹の中で起こすさざ波

 〝さざ波〟という比喩が抜群の効果を発揮する一首は、未生のものへの憧れを読者にもたらす。蝶を歌や詩の暗喩と読んでみるのも一興だろう。

 

ぬばたまの斎場の静けさを聞く いつか炎になる日を思う

 夜、闇、夢などに掛かる枕詞である〝ぬばたまの〟を斎場に掛けている。特筆すべきは、奔放ながらも端正な韻律の冴え。斎場の静/けさを聞く、という句跨りが読む者を一層厳粛な心持ちにさせる一首。静けさの中に燃え盛る炎は、あるいは救いかもしれない。

 

深々とフードを被るこの影を誰とも分かち合うことがない

 人がすべてそれぞれの形の影を引き連れているように、影と私たちは切っても切れない関係にある。人々が憩う木蔭などとは異なる、自らのためだけの影。遮るものの存在、分かち合わないことにこそ安らぎがある。そんな日は、私もフードを引きかぶってしまおう。

 

風ですか さっき私の首元にるっと巻きついていったものは

 あれは、本当に風だったのだろうか。〝首元〟という言葉選びにかすかな危うさが潜む。〝る〟の字のような複雑な軌跡を描いて過ぎ去った風は、きっとまた戻ってくるのだろう。

 

がらんどう、わたしのなかのがらんどう 無いとは痛むものなのですね

 自らの空洞に呼びかける一人の存在。読点の分だけ遅れてくるリフレイン。その反響は誰が返したものなのか。私か?空洞か?それがどちらであったとしても、私たちは痛みを抱えて生きていくしかないのかもしれない。

 

かまきりの鎌こそばゆくこの鎌で狩られるもののあるということ

 蟷螂の斧、という慣用句がある。捕食される対象にとって生命の脅威となるカマキリの鎌も人間にとってはくすぐったい程度のものでしかない。そんな一抹の寂寥感。

 

人間に生まれたからね たてがみに顔をうずめることができない

 人に生まれてしまった。獅子のたてがみに埋もれて甘えた日々を持つ一生もあったのだろうか。

 

あぽすとろふぃ、えす 僕はもうこれ以上だれのものにもならないからな

 

 切れ目の判別が難しくも巧みな一首。読点に従って読むと、しっかり定型に嵌っている。生まれ落ちた時点で人は誰のものでもない。あるいは自分のものだろう。He'sでもShe'sでもない、硬質な印象。

 

二度同じゆらめきはなく炎からもう目を離すことができない

 二度目の〝ことができない〟結句置き。炎そのものの一回性ではなく、その揺らめきの一回性に主眼を置いたあたりに技を見る。詩が生まれるときの炎、という読みも許されていい。

 

曇りのち雨のち曇り強く雨 傘をさすことには慣れている

 降ると降らざるとに関わらず、そしてたとえ強く降ってくることがあろうとも、雨を厭うことはない。傘さえあれば、雨だって旅のお供なのだから。そんな意志を感じる一首。

 

あじさいは骨まで青い まだ誰も見たことがないあじさいの骨

 詠み手としてはたやすく決まってくれる二句言い切りの一字空け。その強さがこれほど絶妙な強度で効いた歌を読めることはそう多くはない。ないものをないといいながらも繰り返されることによって生まれる異質な実在感。稀に見る秀歌だろうと思う。

 

裏返す鰆の白さ まぶしくて見られなかったもののいくつか

同じく二句言い切りの一字空け。ただ生きていたはずの鰆を食らって生きる私たちにとって、彼らの持つ背景は見るに堪えないものなのかもしれない。あるいは、その眩しさゆえに。

 

孤独って毒なのかなあなんかみんな触れないようにしてるんだよね

 わずかに幼い文体が見事な一首。すっとぼけた物言いの裏に潜ませた蠱毒が蝕んでいるのは、俺か、お前か。

 

うっとりとパンに塗りたい朝焼けは蜂蜜の瓶にためておくから

 この歌のみ逆選。二句の〝塗りたい〟と結句の〝ためておくから〟が照応しきっていない印象。ここは〝パンに塗ろうよ〟と呼びかけてほしかったところ。

 

言いかけてやめるさくらも言い切るもさくらひとりで歩くもさくら

 ひたすらに絶妙であり、感想も不要。私信として、背後に楠誓英のある一首を感じた。それが錯覚でなければ、とても嬉しい。

 

幼獣のようにじゃれつく春風を冬のさなかに見つけてしまう

駆け寄ってきたかたまりを抱き上げる はるかぜ、あたたかくてえらいね

 こんなにも秀逸な擬人法を久々に見た、というのが素直な感想。何の獣か特定していないところが一層好ましい。優しい二首。

 

ではご覧くださいウルトラハイビジョンカメラがとらえた猫のあくびを

 衝撃の技巧。それこそ動画のパースがあっていくかのように活写された猫のあくびがどうしても精密なものとして思い描いてしまう。無類の力業。

 

地上へは階段で行く失った走行性を揺り起こしつつ

 結句〝揺り起こしつつ〟によってこちらに眠った走行性も揺り起こされていくような感覚の共振を伴う。さあ、野生に帰ろう。

 

 

*****

 

 以上でこの感想を締めくくりたいと思う。全編を読み通して思ったこととして、著者の技術の幅はやはり相当なものがあると改めて感じた。反面、無意識のうちに〝決め技〟のようなものを持ってしまっていないかという点を危ぶむ。自覚のない決め技は、知らないあいだに効力を失ってしまう危険性を秘めている。既にその危殆に瀕してしまった実作者として、ひとつの老婆心をここに掲げておく。

 

最後に、ここで私が評を加える必要を感じなかったものの、好きだった歌と、返歌を二首。

 

死ぬのかと思ってしまうほど雨後の視界は光、光しかない

私にも部首をください仏さま雨かんむりをのせてください

変ですねこんなに澄んだ夜なのにだれもおもてを歩いていない

熱の日に食べるアイスの心地よさ 銀のスプーンに生まれたかった

 

 

世のなかをうすく儚むひとがいて影から見える光のはなし

 

雨というシロツメクサのかんむりを載せた貴女はきっと霽れやか

 

文責:田上純弥