叢雲堂春秋

古典詩への憧憬を基軸に、書評と随想と ── If you're also a stargazer, feel the emotion. Think the thought. ──

短歌における旧仮名遣いとは。

 

過日、葉ね文庫で短歌と歌会にまつわる自分の考えを知人に話すことがあった。そこで短歌と仮名遣いの関係について触れたが、それがきっかけとなってまた色々考えるに至ったので、書き留めておきたい。

 

以降は古典かなづかいで記します。なお、この文章における「新かなづかい」は現代かなづかいという呼び方もあり、「旧かなづかい」には歴史的かなづかい、古典かなづかい、正かなづかいという別称があります。ご留意ください。

 

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旧仮名遣ひは思想か否か。さういふことを歌友と話し込んだことがあり、漠然と、それでゐて強く記憶に残つてゐる。彼は、自ら旧かなづかひで歌作してゐながら「旧かなは思想的に受け取られうるもの」といふやうな疑義的な立場を取つてゐた。

 

思へばこの時から、彼がいつかは旧かなづかひを暫定的に離れるときが来るだらうな、といふ気がしてゐた。などと云へばこれはいはゆる後出しジャンケンになつてしまふだらうか。

 

さて、私は新かなづかひによる文語、およびそれによつて形作られた短歌といふものが、内容の巧拙とは関係なくあまり好きではない。たとへば〝あはひ〟といふ古語を現代かなづかひで〝あわい〟と記した途端、それが境界を意味する古語なのか〝淡い〟なのかわかりづらくなる。また、あると信じたい古語特有の趣きらしきものも減殺すると思はれる。

 

さういつたあれこれが、現代かなづかひで文語を紡いだ場合に、雲霞のごとく現れる。それを自然な古語づかひだとは、今に至るまで思へないでゐる、といふのが〝あまり好きではない〟と感ずる理由といふか、根拠にならうか。

 

旧かなづかひといふものは、読む際に書いてあるままに読まうとしてしまふことで言語的重奏性を帯びるとか、半強制的に読者の読む速度を遅める働きがあるとか、そもそも日本語としての語源に基づいてゐるとか、前向きに捉へる向きがある。反面、現代語として見た際に後ろ向きに受け止められてゐる傾きも感ずる。

 

後ろ向きといふのは、古色蒼然としてゐて読みづらく、現代の生活に根付いてゐる日常語でもなく、いやに芝居がかつた、コスプレ的なものであるといふ印象が一般的な反応であらうか。

 

さうは云つても、現代短歌においては守旧的に見たらばとんでもないであらう〝独善的ルビ〟とでもいふべきものが存在してゐる。かくいふ私もよくやつてゐる。たとへば、菫青石に〝アイオライト〟とルビをふつてみたり、日本語文に英文をルビとしてふつてみたりするごときである。春日井建などはその先駆けと言へよう。

 

これと旧かなを用ゐて歌作することにわざわざ差を見出だすことのはうが却つて思想的なのではなからうか、と思つたりもする。現代において旧かなづかひといふものが日常語ではないといふ言説は、詩がそもそも日常から浮かぶなり離れるなり、一定の飛躍によつてこそ安らぎをもたらす性質を持つことがあるのを忘れてゐるのではなからうか。要は、浮遊できれば何だつていいのだ。詩が芝居でなくでなんであらうか。歌がコスプレでなくてなんであらうか。

 

ところで、旧かなづかひを未だに「正仮名遣ひ」と呼ぶ層がある。私もかつてはさう書いてゐたことがある。しかし、旧かなづかひのことを敢えて正仮名遣ひと呼ぶのもまた一種の〝思想〟なのではないかといふ気がして、やめた。

 

この言ひ方には、正負の構造とでもいふべきものが潜んでゐる。旧かなづかひに即することが正であるといふならば、新かなづかひに即することは負である。その考への行きつくところ、〝誤〟ともなりかねない。

 

かつて漢字を〝真名〟と言ひ、さうでない二者を〝仮名〟と言つた。真名は男のつかふものであり、仮名は女のつかふものであつた。真なるものと、仮初めのもの。さういふヒエラルキーは、もういい。

 

そんな気がしてゐる。