語彙消失歌会と穂崎円歌集『ヴァーチャル・リアリティー・ボックス』
ご無沙汰してます。田上純弥です。iPhoneから更新のしづらい仕様のJUGEMを捨てて、僕の観測範囲で短歌界隈のひとが比較的多そうなこのはてなブログを始めました、というのはTwitterでもお話しした通りです。そしてブログという場に長文をしたためるのは相当に久しぶりなので、どうなることやら。そして先回りして書いておくと、書き手としての一人称は統一しませんのでご了承ください。
さて、昨晩ツイキャスでお話したように昨日はゆとり世代短歌企画〝YUTRICK〟主催のなべとびすこさん(@nabelab00/@Yutori_Tanka)とWeb短歌連作サークル誌〝あみもの〟編集人の御殿山みなみさん(@1ookat2/@tanka_amimono)のお二方が企画された〝語彙消失歌会〟なるものに出席して参りました。
趣旨としては、歌会において「しっかりしたことを喋らなければならない」というハードルを下げることを主な目的としているようです。
歌会の形式ですが、「コワい」「アツい」「わかる」など様々な〝消失語彙〟のカードを机に置いておき、司会者による作品の読み上げ(披講、朗読とも)を受けて参加者が思い思いのカードを自分の前に掲げ、それを見てとった司会者が掲げたカードに即して発言を求める、という形式でした。
持ち寄る作品は、自作選二首と他作選一首。特筆すべきポイントは、他作選も「歌会の詠草として扱われる」こと。この歌会がいわゆる短歌作品批評会としての歌会というより「短歌作品感想会」であるがゆえに取れる方法ではないでしょうか。
この点については他作に先入観なく触れられて新鮮だった反面、歌会である以上は自作の批評パートと他作の感想パートは分けた方が望ましいのでは、という疑問は感じてしまった、というのが正直なところです。
さて、ここから話が変わります。
他作選一首で、参加者のひとりが持参してきたこの作品に強く惹かれました。
けれどあなたに降りかかる花うつくしく また咲くために春の部隊は
取り戻した語彙で色々と僕の感想を書くと、
春の部隊というのはこの〝あなた〟が率いているもの。春という季節がこの〝あなた〟を中心にもう一度巡ってくるだろうということが示唆されている。結句を言い差しで止めた表現なので断定は出来ませんが、〝降りかかる花〟ということなので春という季節、そして花は散ってしまった、という解が適当でしょうか。
散ろうが咲こうがこの〝あなた〟の美しさが永遠に保証されている感じに僕は惹かれました。聞けばこの一首、すでに積んでいる穂崎円さん(@golden_wheat)の私家版歌集『ヴァーチャル・リアリティー・ボックス』に収録されているとのこと。取り急ぎ読み通したので、僕が思う秀歌を以下に引きます。
念のため先に言っておくと、本歌集は連作によって仮名遣いの新旧が異なります。
人混みを肩いからせて進むときひとりひとりが既に火柱
→結句の体言止め、そう見えるあるいはなっているという解でいいのか。だとすれば視点の人物は?視点の人物もまた、火柱のひとつだろうか。鮮烈ながら粗削りの感じも。
冬の夜は暗いね。眠りつづけてる君のかわりに喋っているね。
→視点を担う人物はそれでも平然と起きていて、眠りっぱなしの相手を責めるでもなく、代わりに喋っているね、という。結句の文末にまで付された句点が優しさと充足感をもたらす一首。
たましいの欠けてうまれてきたことを男や女ともうよばないで
男だろうと女だろうとそれはただ等分に魂が欠けて生まれてきたに過ぎないのだろうか。これも既成概念からの優しい解放だという気がする。
Fragile-Handle with care/This machine is made of Sakura,Sakura ※全体にルビ:取扱注意の札をくつつけて 君は桜でできてゐたのか
英語に疎く初見では読めなかった。つい先日大手拓次について調べた際、フラジャイル(脆弱な、脆い、壊れやすい)という語彙を得たので今回引かせていただく。※作品中ではwithとcareのあいだにスペースがありませんがそれは誤植とのことで、作品の意図に沿った形で引用します。
フラジャイル/ハンドル・ウィズ・ケア/ディス・マシーン/イズ・メイド・オブ/サクラ、サクラ
調べとしてはこのような区切りになると思う。逐語訳的な書き方をすれば「配慮のない扱いに脆弱です。この機械は桜、桜によって作られています。」という具合になるのだろうが、ご覧の通りルビはそんな散文的なものではない。
次にルビだけで読んでみる。
取扱注意の札をくつつけて 君は桜でできてゐたのか
これだけとっても明らかに上手い。旧仮名遣いを用いることによって助動詞「た」の気づきの効用が増幅されている、というのは私の旧仮名口語体に対する主観なので置いておくとして、驚きは得られると思う。
この修辞だと〝きみ〟が自らの手でもって「私は桜でできています」という札、レッテルを貼ったことになるため、自分に〝くつつけられて〟の受身形ではないことがやや気になるがどうなのだろうか。この一首からどういう意味を拾うかは人それぞれだと思うが、どうも私にはこれが寓意に思えてならない。
結句を読んで私たちはある唱歌を思い出す。さくら、さくら、弥生の空に、見渡す限り……さくら、さくら……
読み手がこの唱歌を思い出してしまうことまで含めて、この一首は見通しているのではないか。〈壊れ物注意〉の札を自分からぶら下げて、自らが桜で作られていることを恥じも疑いもしない絡繰人形、オートマトンの姿が目に浮かぶ、という読み方は穿ちすぎだろうか。
もう一点、この歌集について書いておきたいことがある。それは、デザイン。そしてレイアウト。加藤治郎の最新歌集『Confusion』がいぬのせなか座による作品レイアウトで話題を読んだことは記憶に新しい。
この『ヴァーチャル・ボックス・リアリティー』にもそのような視覚的訴求性が見受けられる。あるときは黒いノイズに作品が囲まれたようなデザイン、あるときは黒く塗り潰されたページに白色で記された作品群。レイアウト詩歌というものは果たしてどこまで羽ばたくことができるのでしょうか。
この二つの作品が絵とともに織り成す詩情にいまとても惹かれている、そんな告白とともにこの項を終わりたいと思います。
通読有難うございました。またいずれ。