叢雲堂春秋

古典詩への憧憬を基軸に、書評と随想と ── If you're also a stargazer, feel the emotion. Think the thought. ──

歌会初参加より四年を前にして——初期作品公開推敲

 

ご無沙汰しております。流霞と申します。短歌を始めて六年は過ぎたようです。

 

 そこで私が四年前、ある方の導きによって初めて歌会に出たときの詠草を公開推敲すれば私のツイートや即詠の読者にとって面白く、かつ詠歌や詩作の踏み台になるのではないかと考え、この稿を記します。体力と時間を鑑みて言及は一首目のみに留めます。

それでは、しばらくお楽しみください。

 

 

口角を上げようとして鏡には吾を貫く眼窩の黒さ

 

一羽、二羽、残鴬響く声聴けば吾が傍らに鳴く閑古鳥

 

 

以上二首が、2016年夏の盛りに未来短歌会のとある歌会に参加した際の作品です。手始めに、上の一首について今の私から見た、詠歌とは口が裂けても言えない拙さを当時の意図を汲みながら批評、解説してゆきたいと思います。

 

この一首目ですが、笑顔を作るべく覗き込んだ鏡に自分を貫く「眼窩」なるものの黒いことが描かれています。ここで前提とすべきは、歌会でもいただいた評ですが人間において眼窩という部位は骸骨になりでもしなければ見えない部位だということです。

 

ここには望ましくない意味において、様々な読み筋がありえます。眼窩という名詞が誰の、何の眼窩なのか。ほとんど用言による説明もされていなければ斡旋も誘導もされていない。あるのは読者の感性だけです。するとどういうことが起きるか。

 

眼窩というのは何か作者にとって思い入れのある動物の死体を幻視しているのだろうか。だとすれば上の句の措辞、笑おうとしてそれが見えるのは一体なぜなのか。どこにも手掛かりがないため、読者が終わりの見えない虚構を試みる羽目になります。さらなる問題は、眼窩が見えるほど凄惨な状態の骸は、どう考えても黒くはないということです。白いか、あるいは血塗れか。そのどちらかが妥当でしょう。現実離れしているというよりは、現実味に欠けています。

 

 では作者たる当時の私はこの作品において何を示したかったのでしょうか。紐解いてゆきましょう。まず鏡には口角を上げるために向かうものだという前提があり、彼は何かに貫かれた。それは眼窩というものの黒さであった。ここまで砕いてもまだ説明不十分の趣が漂います。掘り進めてみましょう。

 

上の句における「口角を上げようとして」という言い回しは、行為について多分に作為的です。この歌は下の句に到っても行為の終結がなく次の事象に雪崩れ込むため、口角を上げ終えたとは断定できません。そして鏡を通して目に映る「眼窩」ですが、これはどうして黒いのか。いうまでもなく黒とは闇のイメージです。一種の絶望です。

 

つまりこの歌において作者たる当時の私が表現したかったことは、鏡に向かって笑顔を作ろうとするとき、自らの相貌に朽ち果てた骸の幻影を見てしまった、ということでした。その虚無感、無力感、罪悪感、失望、それらすべての感情を、「黒」というたった二音の一語に託してしまっていること、これが最大の誤謬ということです。

 

最後に歌としての欠陥を指摘してみましょう。

 

口角を上げようとして鏡には吾を貫く眼窩の黒さ

 

「口角を上げようとして」というのが意識的すぎる。初句から結句まで句切れがなく、冗長。説明的すぎる。二句まで使い果たして述べるような入り方ではない。また、意味内容、漢字表現のバランスが悪く、短歌を縦書きと考えた際に、見た目の上で下部が不用意に重々しい。「吾を貫く」という動作も完全に誇張で終わってしまっている。「貫く」という死すらもたらしうる内容の動詞の強さに対して事象が非常に空疎。鏡という状況設定は悪くないものの、続く第四句の迂闊な体言止めが目立つ。これで私を貫くのが「真冬の日差し」「他者の眼差し」など実体感を含んだ名詞節であったならまだ救いようもあっただろうが、「眼窩の黒さ」という通常は物体を貫くことの有り得ない名詞節が配されているために、なんの実感も呼び起こさない。紛れもない失敗作だろう。

 

 

 ……解体は終わりました。本題です。推敲してみましょう。最終的に二通りの推敲案を提示します。どちらがよりよいか読み比べてみてください。

 

まず、最大限原型を尊重してみます。口角を上げようとして、という入り方に韻文らしさがないことは明らかなので、初句と同じ音数である「鏡には」を初句に持ってきます。

 

鏡には眼窩の黒さ口角を上げようとする我を貫く

 

随分すっきりしました。ですが、つながっているわりには二文がぶつぎれである印象が拭えません。結句の終止形が二文並列の印象を強めているようです。いっそ句切れのあとに空白を入れてしまえば潔く見えそうです。一人称についても抒情の質から透ける年齢、言ってしまえば若さに見合わないので変えてしまいましょう。

 

鏡には眼窩の黒さ 口角を上げようとする僕を射抜いて

 

いかがでしょう。初句二句のわかりづらさは残るものの、かなり読みやすくなったのではないでしょうか。二文が切り離された構造でしたが、動詞を連用形に活用させ、助詞「て」を補うだけで倒置された一文に内容が変化し、流れが見違えました。さて、すべての感情を「黒」に委ねた結果が失敗の最たる要因でした。その思い入れを捨て、別の場所に感情を振り分けてみましょう。

 

鏡には透けゆく眼窩 口角を上げようとする僕がほどけて

 

完成形といえそうです。異常性の高い「眼窩」という名詞に対して少しの説明が加わりました。透けゆくという進行態になることで非現実的な雰囲気が明確になっています。加えて結句の掉尾を担う動詞が助詞「を」を伴う他動詞から助詞「が」を伴う自動詞に変化したことで、「眼窩の黒さ」(推敲後は「透けゆく眼窩」)が「僕に対して作用している」という強い結びつきが薄れ、二文の相互関係が緩やかなものになりました。

つまりは「眼窩が僕を射抜く」という措辞から、「眼窩に(よって)僕がほどける」という構図への変化です。これにより、想像の余地と意味の空白が広がっているように思えます。

 

 

 最後に、例の一首を現在の私の歌論と手法を用ゐて改作してみます。

 

口角を上げようとして鏡には吾を貫く眼窩の黒さ

 

言葉が余りにも硬く、ほとんど詠歌の体裁をなしてゐない。歌の詩的空白には欠かせない虚辞といふものが絶無なので、まづ語彙から考へ直したい。わざわざ眼窩といふ必要があるのか、黒とまでいはねばならないのか。自らが笑はうと努める場面でなくてはならないのか。笑ふのは本当に私でなければならないのか。事柄を限定しすぎなのではなからうか。このやうに懊悩の前面に出た歌で、何が救へるといふのか。

 

******

 

笑まふべき由あれば見る姿見にわがゆくすゑの骸浮かびつ

笑ひえぬ恨みのまゝに眺むれば鏡のうちにわれはしかばね

繰りかへし鏡ながめてゐるうちにゑがほが骸のすがたをとりぬ

笑まふべきものを鏡にうつれるはわがゆくすゑの屍のかほ

ゆふぐれは日に異にわれに寄り添ひぬ鏡のなかを骸のゑがほ

 

 

 

口角を上げようとして鏡には吾を貫く眼窩の黒さ

鏡には透けゆく眼窩 口角を上げようとする僕がほどけて

ゆふぐれは日に異にわれに寄り添ひぬされば鏡に骸のゑがほ

 

 

 

長くなりました。「日に異に」というのは「ひにけに」と読み、日ごとに、日増しにという意味の古代語です。下の詠歌では一切の漢語を排しました。推敲前、推敲後、改作、皆様どちらがお好みでしょうか。コメント、リプライ、それぞれお待ちしております。

 

 

 

玄水亭流霞/山本千景 Twi: https://twitter.com/Nostalfire_