詩における〈志〉とは? ー随想
詩とは即ち〈誌〉であり、志を言うものである―
という理念があるとして、私はこれをどこから得たのか。わざわざ問うまでもない、畢竟この考え方は唐詩に由来するものだ。思い返せば、私に初めて暗誦を企図させるほどの衝撃をもたらしたのは、唐の詩を初めとした、いわゆる〈漢詩〉の作品群であったことは疑うべくもない。
空山不見人 空山 人を見ず
但聞人語響 ただ人語の響くを聞く
返景入深林 返景 深林に入り
復照青苔上 また照らす青苔の上
王維「鹿柴」 ※鹿柴(ろくさい)、返景(落日と反対側の夕光)
この静かな山に人影は見えず、ただ話し声のこだまだけが響きわたっている。そうこうしているうちに夕影が深い林の中に射し初めて、青々とした苔の辺りを照らしている。
ここには人影のまばらな山あいにおける時間の推移が、澄んだ聴覚と苔に射した色彩とともに保存されている。そしてそれ以上のことは、何もない。
白鷺下秋水 白鷺 秋水に下り
孤飛如墜霜 孤飛すること墜つる霜の如し
心閑且未去 心のどかにしてしばらくは未だ去らず
獨立沙洲傍 独り立つ 沙洲の傍ら
李白「白鷺鷥」 ※白鷺鷥(はくろし、白鷺をいう)
白鷺が一羽、秋の水辺に舞い降りる。群れから離れて落ちてくる様子はあたかも空から降ってくる霜の姿に似ている。心中穏やかなのだろうか、今は立ち去る気配もなく、中洲の辺りにただ独り、茫洋と佇んでいる。
白、秋水、霜、沙洲、と縁語的とも見える語の斡旋に澄んだ感慨が冴えわたる、この一篇の詩を静謐と爽涼をもって占める白鷺の姿に、李白自身の志、つまり心の在りようが現れていることは火を見るよりも明らかだ。
漢詩にはしばしば〈孤〉という修飾語が現れる。同じ李白の「独り敬亭山に坐す」に見える孤雲の語や、柳宗元の「江雪」における孤舟の語などがそれにあたる。多くはそこに己の在りようを寓意するためだが、翻って考えてみれば雲が方々に広がっていようと舟が数隻浮かんでいようとそれは究極的には孤独であるのかもしれない。
千山鳥飛絶 千山 鳥飛ぶこと絶え
万徑人蹤滅 万径 人蹤滅す
孤舟蓑笠翁 孤舟 蓑笠の翁
獨釣寒江雪 独り釣る 寒江の雪
柳宗元「江雪」 ※人蹤(じんしょう)、蓑笠(さりゅう)
結局、詩や歌や句というものは、選ばれた言葉の並びと調べとが、何がしかの情感を十全に表出していればそれでよく、そこに滲んだものが僅かなりとも伝わりさえすれば〈志〉を言いおおせたということになるのだろう。言葉を用いて何かを表現したというその時点で、我々は修辞や比喩といった細工よりも実は大きなものを手にしている。
というのは、表現者としていささか妥協が過ぎるだろうか。
向晩意不適 暮れにならなんとして心適はず
驅車登古原 車を駆りて古原に登る
夕陽無限好 夕陽 無限によし
只是近黃昏 ただ是れ黄昏に近し
李商隠「楽遊」
※向は本来の訓読みとしては撥音便で向んとす(なんなんとす)が正しいが、意味をとりやすくするため枉げ改めた。