叢雲堂春秋

古典詩への憧憬を基軸に、書評と随想と ── If you're also a stargazer, feel the emotion. Think the thought. ──

古川日出男『ゴッド・スター』を読み終えて

 

 

ここ数日、感情も思惟もどうしようもない。まるでまとまりを持たない。泥のようだ。Twitterを普通に使うのをやめた。人を傷つけるから。誰かを呪うために言葉を吐くことに、疑問を持たなくなったから。嫌い、という感情にだけ支配されつつあったから。潰す、という目的にしか価値を見出さなくなりつつあったから。Instagramはてなブログの更新が自動的にツイートされるような、そんな間接的な活用に留められたら、と今は思っている。主宰していた文芸批評会のアカウントも、消した。

 

始めから私は誰にも求められていなかった。私にしても、実は誰も求めていなったのだろうとに今にして思う。柄じゃなかった、そういうことにしておく。

 

自分がリアルタイムで言葉を並べるべき人間ではないということ。

 

 

いつからか、サラマンドラ

なっていた。

みんなみーんな燃えてしまった。

 

そんな歌を詠んだのはそう遠い話でもない。こう詠んでみたところで、世界はそうたやすく燃えてくれない。自分が燃え尽きるほうが話が早い、どんな意味合いにおいても。The Durutti Column「Vini Reilly」を聴いていたところ、哀しみのあまり何かしら書きたくなった。それでいまこれを書いている。

 

前回の記事への目に見える反響があまりに少なかったので以前にも増して失望している。己の内面の氷を切り裂いて記した散文なんてものは流行らない、そんな気分に苛まれている。早計だとは思うが。というか、皆もっと苦しめ。

 

それはそれとして、久々に小説を通読した。新潮文庫から出ている、古川日出男の『ゴッド・スター』というものだ。タイトルに惹かれた。黒田潔という方による、表紙の装画が気に入った。書籍のほうから語りかけられるのは久々だったので、嬉しかった。

 

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私はたしかに少年の母だった。紛れもなく、「あたし」であった。途中までは文体の携えた疾走感に喰らいついていけていたが、中盤、「メージ」なる存在が現れたあたりから思考が混濁して上滑りの読書と化していたような気もする。質的には朝吹真理子『流跡』のような、散文詩に近い読後感だった。文体としてはそこに森博嗣スカイ・クロラ』のようなドライブ感と同『クレイドゥ・ザ・スカイ』における自己乖離感が乗るような、そんな感じだった。

 

 

違う。違うの。こんな語りではあの作品の魅力を語りつくすことなんてできやしない。あたしは速度を上げる。何の?思考ってゆうか、語りの。あたしをさっきまで取り巻いていた言葉の速度に合わせて。あたしは深入りしない。内面の速度を外界のスピードに合わせて。シンプルに。あたしは彼の記憶を辿る。

 

 

とまあ、こんな文体で謎を残したまま駆け抜けていったわけだ。誰が?あたしが。あたしの感情ってゆうか、思惟が。おや、まだ残滓があったらしい。はやくここから出ないと。あたしたちは出口をさがす。出口ってどこの?

 

「よるです。リウカはかなしいものをみつけます。リウカにかなしいんです。それは月です。きっと月です。雲がよぎります。月がかくれます。あらわれます。かくれます。しろくなります。あさです。」

 

 

 

どうやら私は、とんでもない袋小路に迷い込んでしまったらしい。

 

 

 

 

ゴッドスター (新潮文庫)

ゴッドスター (新潮文庫)

 

 

 

無機物性愛/蒐集披瀝癖/果てしなき疲弊

 

 

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酒器を始めとして、身の回りの道具に尋常ならざる愛着を持っている様は私のTwitterに剋明に記されている。それでいっそ無機物性愛者になっては如何、ということを思った。

 

なっては如何、というかもともと無機物性愛を抱えているのではなかったか。今まで何十個の石を集めた?何百体のSDガンダムフルカラーを蒐めた?

 

言語に対する姿勢も、古典詩に捧げる憧憬も、恐らくそれらに向けた偏愛と大して変わらない。このような感覚で言語芸術に携わるとき、その態度は執拗ではありえても敬虔ではありえない。

 


自分を表現者ではなく媒介者だと述べて憚らない理由はここにある。何なら媒介者どころかただの蒐集家に過ぎなかった可能性すら浮き上がる。つまり自分の詠歌にしてからが私のためのコレクションに過ぎないということだ。

 

この思索を受けて、自分がこれまでの詠歌においてたびたび衝突して未だ回避できていない〈自閉的〉〈排他的〉〈独善的〉〈耽美的〉といった壁の存在と、その正体について漸く得心がいった。

 

 

私の詠む歌の言葉が、世界観はあっても読者が入るべき余地にしばしば欠けるというのは、このあたりの性癖に起因しているに違いない。そして私は、極めて悪いことにどうやらそれを剋服する気がないらしい。

 


そう。昔から他者に自分の集めた何かしらを見せびらかすことが強烈な快感を伴う生き甲斐であり、何にも変えがたい存在証明だった。その性癖の最も顕著な発露が連作歌篇、ということになるのだろう。一首の歌に那由多と阿修羅を共存させるような我田引水の振る舞いに、言葉と言葉が背中を向けあっていてなお違和感を抱かないのも当然の成り行きだ。何なら言葉に意思や個性や相性を見出だしうる人種のほうが私に言わせれば特異で空恐ろしく、不気味なくらいだ。

要するに私は言葉を信仰していない。

言葉に敬意を払っていない。

 

そして近頃「短歌連作」という呼称を廃して「連作歌篇」と称しているのは、十首からなる一篇の歌ではなく十行からなる一篇の詩として己の作品に触れてもらいたいがための苦肉の策だが、畢竟これも蒐集してきた言葉の披瀝という詞ありきの目的が「短歌」という心と密接に関わる表現形式と重大な齟齬を来すことを潜在的に感じ取って敢行した苦し紛れの逃亡だったのだろう。

 

 

つまり、私は歌を奴隷扱いした上で詩に亡命している。

 

 

どこまで言葉を蔑ろにすれば気が済むのか。歌などやめて詩を書けという方向に内部衝迫が向かっていく理由は上で語り散らかした通りだ。その上で自らに釘を刺しておきたいことには、歌というものは貴様の言語蒐集の披瀝に寄与させるための舞台でもなければ装置でもなく、ましてや奴隷などでは断じてないということだ。

 


私の行っていることはもうすでに歌ではなくなってしまった。あるいは詩であればそういう言語偏愛に基づく作品も多少は許されるかもしれない……そんな安易な考えに駆り立てられそうになる己に対しても腸が引き裂かれ古の猿どもの長嘯が月明かりの湖面に鈍やかに映る。

 


どの道思春期真っ只中の性欲に取り憑かれた少年が画面上ないし紙面上の色香に惑乱耽溺した末に精を垂れ流しにしているような、児戯に等しく自慰にも劣る衒学の域から離れることがない。ここまでの文中でいちいち挟まれてきた態とらしくも極限的な表現の数々についても自分で書いておきながら肌が粟立つ始末だ。

 

 

子供がノートに新聞から天体の写真を抜き出したものをスクラップし、大人による賞讃を待ち焦がれる。似而非芸術家が先人の作品を掠め取ってきてコラージュしたものを己の作品だと思い込んで騒ぎ立てる。そういう振る舞いしか能わないのだとしたら、すでに私の斯道に先はない。

 

 

仮令この双眸が己の歪みきった認識の通り炯眼であったとしても、それを靉靆たる承認欲求の夕靄でおぼろかに曇らせているうちは誰とも上手くいかないだろうし、何も上手くいかないだろう。

 


もう私は疲れた。背中に覆ひ被さつた狷介固陋な虎もろとも疾く疾く燃やして呉れ給へ。ひさかたの天より降らむ雨の槍に貫いて眼だけを東の門扉に飾つて呉れれば、それで充分だ。

 

 

 

 

 

 

音の連綿を考える

 

歌において歴史的かなづかいが身体化してくると、勢いひらがなが増えるのが自然の摂理である。

 

という持論を、一介の歌詠みとして長らく持っている。ここでいう身体化というのは、現代かなづかいで発想したものを歴史的かなづかいに直すという作歌法ではなく、そもそも発想の段階で歴史的かなづかいであることを指し示す。

 

ひらがなの比率が高まってくる理由は、様々考えようがある。漢字だけでは視覚的に重すぎるから、歴史的かなづかいだということがひらがなでなければ鳴りを潜めてしまう語彙だから(例:水→みづ、声→こゑ)、一首として視覚的に極端に短いのが俳句めいて歌らしさを損なうから、など枚挙に遑がない。

 

光琳派の家元のような存在である本阿弥光悦は、俵屋宗達と様々な共作を行ったことで名高い。宗達の絵の上から記された光悦の筆、そうして響き合う「鶴下絵和歌巻」などはひとつの作品のなかでさえ相互に影響を与えて燦爛たる微妙な関係性の上に成り立っている。恐らくは尾形光琳・乾山兄弟による陶器の名品に対しても同じことが言えるだろう。

 

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本阿弥光悦書・俵屋宗達画、「鶴下絵和歌巻」より抜粋。

 

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尾形乾山作・尾形光琳画、「銹絵牡丹画角皿」

 

 

さて、ここに書道における「連綿」という考え方、筆法がある。

 

歌を縒り合わされたひとすじの、あるいは一組の「絲」であると考えたとき、光悦の筆は果たして筆蹟が連綿しているに過ぎないのだろうか。

 

この問いについて、私は否と答えたい。筆蹟に連綿が要求されるのは、記されようとした和歌の音じたいにすでに連綿が起こっているからであり、書家の運筆は筆を執ったその人の心の内奥に反響した歌の響きが反映した、その現れなのだ。

 

そう思い定めて歌というものを考えてみると、ひらがなは歴史的かなづかいによって連綿する音の様子を想起させるという、絶大な相乗効果をもたらしているのに気が付く。

 

ひらがなを主体に記された歌は、たとえそれが活字体であろうと読者それぞれの内面に秘められた連綿の形を音ともに想起させる。それが筆の形で現れるかどうかの差こそあれ、そういう現象が我々のうちに起こっていることは確かだと思う。

 

王朝歌人や中世の芸術家が持っていたであろう、毛筆による筆致を前提とした共同連想から我々現代人が全く弾き出されているかというと、恐らくそうでもない。そういうことをこの稿で示すことができていれば嬉しい。

 

 

ともあれ、いまはまだ歌が持つこのような可能性に全身全霊を賭けていたいというのが、偽らざる私の想いである。

 

 

年譜でたどる 琳派400年

年譜でたどる 琳派400年

 

 

乾山 KENZAN―琳派からモダンまで

乾山 KENZAN―琳派からモダンまで

 

 

 

 

 

金蚉随想

 

 

金蚉の屍となるまでを眺めたり疾く秋茜飛びつるなへに

 

という歌を詠み、昨日の朝Twitterに上げた。金蚉は「かなぶん」と訓み、屍は「し」と訓ませる。

 

カナブンを最も身近な「死」として捉える感性を幼い頃から携えてきた。それは死してなお瑞々しく緑に輝いていた。死んでいることが信じられなかった。ハンミョウやタマムシのように稀少ではない、ありふれた生命が冷たく光っているのが不思議で仕方なかった。

 


今にして思えば、形にならないだけであのときからもう詠歌は始まっていたのではないか。

 

こんな歌を詠んだこともある。

 

てのひらのうへにからびて抜け殻は落ち葉の音でくづれてゆきぬ

 

夏から秋へと到る契機を見出だす着想において同工異曲と言えるだろう。ただこの歌には視線がない。冒頭に掲げた一首において逡巡したのは、たしかに第三句〈眺めたり〉だった。かつての私は歌における世界に〈私〉が介在することを望んでいなかった。それがいまは和らいだのだろうか。そもそも、果たしてそれは本当に和らげてよいものだったのか?迷いは尽きない。

 

一方、前登志夫にはカメムシを詠じた一首がある。

 

敏くしてここを見棄てしいくたりぞ亀虫の屍を草にかへせり/ 『鳥獸蟲魚』

 

私が冒頭に掲げた一首で屍を「し」と訓ませる契機となった歌だが、抒情の本質としても相当な影響下にあることは火を見るほどに明らかで、いっそ清々しいぐらいだ。もっとも、歌一首で眺めれば即座にアキアカネへと遷移しているあたり私の詠歌のほうが希望があるかもしれない。

 

死骸を曳く蟻のため落蟬は夏熾んなるこずゑを選ぶ/子午線の繭

 

杉山に一つひぐらし鳴き出づる夏至ゆふぐれのしろき梯子よ/繩文紀 

 

死骸は「なきがら」と訓ませられている。前の詠歌における生命、そのなかでも虫は常に死の予感とともにある。上に掲げた二首でも充分それは伝わることだろう。白い梯子を昇っているのはなにも蜩に限った話ではない。

 

死は目に見えないもののようによく言われるが、私にはそうは思われない。いつかTwitterで「歌とはすべて世界に対する相聞である」といったことを嘯いたが、それと同じように「歌はいつでも世界に対して挽歌たりうる」ということを述べておきたい。「ホロビトハアカルサノコトデアラウカ」とは太宰治が小説「右大臣実朝」のなかで源実朝に述懐させて名高いものだが、現代短歌にもそのような滅びが隣にある歌をもっと多く求めたい、というのが正直なところだ。既出作より曰く、

 

ほころびて心得ほろぶほろほろと鳴る山鳩のこゑに呑まれて

 

鶯も鳴かず蜩も哭かず聴き手のだあれもゐない夕暮れ

 

忘れつるいまを今際の形見とて次なる世へとわれ羽ばたきぬ

 

 

 

私は歌の上で何度でも死に、何度でも蘇る。何の話をしていたのかについては、もう忘れた。

 

 

 

前登志夫歌集 (短歌研究文庫 (22))

前登志夫歌集 (短歌研究文庫 (22))

 

 

 

前登志夫歌集 (現代歌人文庫 8)

前登志夫歌集 (現代歌人文庫 8)

 

 

 

前登志夫歌集 (1978年) (現代歌人文庫〈8〉)

前登志夫歌集 (1978年) (現代歌人文庫〈8〉)

 

 

詩における〈志〉とは? ー随想

 

  詩とは即ち〈誌〉であり、志を言うものである―

 

という理念があるとして、私はこれをどこから得たのか。わざわざ問うまでもない、畢竟この考え方は唐詩に由来するものだ。思い返せば、私に初めて暗誦を企図させるほどの衝撃をもたらしたのは、唐の詩を初めとした、いわゆる〈漢詩〉の作品群であったことは疑うべくもない。

 

空山不見人 空山 人を見ず

但聞人語響 ただ人語の響くを聞く

返景入深林 返景 深林に入り

復照青苔上 また照らす青苔の上

 

 王維「鹿柴」 ※鹿柴(ろくさい)、返景(落日と反対側の夕光)

 この静かな山に人影は見えず、ただ話し声のこだまだけが響きわたっている。そうこうしているうちに夕影が深い林の中に射し初めて、青々とした苔の辺りを照らしている。

 

ここには人影のまばらな山あいにおける時間の推移が、澄んだ聴覚と苔に射した色彩とともに保存されている。そしてそれ以上のことは、何もない。

 

白鷺下秋水 白鷺 秋水に下り

孤飛如墜霜 孤飛すること墜つる霜の如し

心閑且未去 心のどかにしてしばらくは未だ去らず

獨立沙洲傍 独り立つ 沙洲の傍ら

 

 李白「白鷺鷥」 ※白鷺鷥(はくろし、白鷺をいう)

 

 白鷺が一羽、秋の水辺に舞い降りる。群れから離れて落ちてくる様子はあたかも空から降ってくる霜の姿に似ている。心中穏やかなのだろうか、今は立ち去る気配もなく、中洲の辺りにただ独り、茫洋と佇んでいる。 

 

白、秋水、霜、沙洲、と縁語的とも見える語の斡旋に澄んだ感慨が冴えわたる、この一篇の詩を静謐と爽涼をもって占める白鷺の姿に、李白自身の志、つまり心の在りようが現れていることは火を見るよりも明らかだ。

 

漢詩にはしばしば〈孤〉という修飾語が現れる。同じ李白の「独り敬亭山に坐す」に見える孤雲の語や、柳宗元の「江雪」における孤舟の語などがそれにあたる。多くはそこに己の在りようを寓意するためだが、翻って考えてみれば雲が方々に広がっていようと舟が数隻浮かんでいようとそれは究極的には孤独であるのかもしれない。

 

山鳥飛絶 千山 鳥飛ぶこと絶え

万徑人蹤滅 万径 人蹤滅す

孤舟蓑笠翁 孤舟 蓑笠の翁

獨釣寒江雪 独り釣る 寒江の雪

 

 柳宗元「江雪」 ※人蹤(じんしょう)、蓑笠(さりゅう)

 

 結局、詩や歌や句というものは、選ばれた言葉の並びと調べとが、何がしかの情感を十全に表出していればそれでよく、そこに滲んだものが僅かなりとも伝わりさえすれば〈志〉を言いおおせたということになるのだろう。言葉を用いて何かを表現したというその時点で、我々は修辞や比喩といった細工よりも実は大きなものを手にしている。

 

というのは、表現者としていささか妥協が過ぎるだろうか。

 

 

向晩意不適 暮れにならなんとして心適はず

驅車登古原 車を駆りて古原に登る

夕陽無限好 夕陽 無限によし

只是近黃昏 ただ是れ黄昏に近し

 

李商隠「楽遊」

 

※向は本来の訓読みとしては撥音便で向んとす(なんなんとす)が正しいが、意味をとりやすくするため枉げ改めた。

 

 

 

 

心がなごむ漢詩フレーズ108選

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新唐詩選 (岩波新書)

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唐詩概説 (岩波文庫)

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宋詩概説 (岩波文庫)

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移ろふもの、成ることなし。

 

先日意を決して落札したノートPC、VAIO S15(シルビアではない)が届き、やや扁桃炎ぎみの体調を押して色々と試しているうちに書き物がしたくなった。そういうわけで以下、随想録。

 

なお、パソコンのキーボードで長文を打つのはこれが初めてとなる。順次慣れていきたい。

 

 

*****

 

 

 そう遠くない最近、カタカナ語を咄嗟に思い出せないことがあった。昔から日本語のことにばかり想いを巡らせていたせいだろう、どうも横文字という奴に弱い節があるらしい。

 

ところが文学という厄介な代物は他人様が不得手としているその横文字を好んでいるらしく、今や横文字は文学はおろか書籍全般とさえ切っても切り離せない。さて文学に隣接するジャンルだからといって美術や哲学の関連書に手を伸ばしてみれば、所狭しと吹き荒れる横文字の乱舞に行き当たること頻りなり。

 

いや、何もいま和語や漢語を大切にしようなどと抹香臭い小言をやおよろず並べにきたのではない。そんな高邁な理念めいたことは、各々が勝手に心掛ければいい話。今回はむしろその逆。

 

 

 どうも前置きが長くなっていけない。だがまだ話は続く。人に何かを端的に伝えようとするとき、漢語は威圧的な感じが前に出てしまうし、といってあまり和語に重きを置きすぎても話がまどろっこしいものになってしまう。古典からは遠ざかり、また時間に追われてばかりいる我々の生活に深くカタカナ語が喰い込んでくるのも、当然のなりゆきなのかもしれない。

 

こんなことばかり考えているせいか、期せずして自らカタカナ語を用いたとき、後でその部分だけが回想の中に異質な質量を伴って浮き上がってくることがある。そして、先に述べた事柄を反映しているかのように、その横文字に寄り掛かった言葉選びが実は自分の中で重要な、思惟の根幹を占めているものだったことに、はたと思い至ったりする。(そんな大層なものであればいいのだが)

 

 ようやく本題に入ることができそうだ。まったく、どうしてこんな回り道をせねばならないのか、自分でも呆れるばかりだ。つまり、最近自分の思考の端々に葉脈のようなものがあるとするならば、そこにいつも浸透している二語のカタカナ語がある、という話がしたかっただけなのだ。

 

まずひとつが、Phase(フェイズ)。そしてもうひとつが、Gradation(グラデーション)。このふたつの言葉に、いま私はとても惹かれている。

 

この頃、己を取り巻くあらゆる現状に対してフェイズという概念を持ち出すようになってきている。段階や局面を意味するこの言葉は、瞬間を長期的視座に置くことによって状況を相対化する働きを持っているように思われる。一方のグラデーションは、衣服や絵画などの色調や、その濃淡について使われることが多い言葉だ。

 

差異とは即ち変遷の一過程に過ぎず、色彩の濃淡に過ぎない。そんな俯瞰的な視座を持つことができたとすれば、それはこの二語のもたらす恩恵に沐したお蔭なのかもしれない。ここで思い出すのは、古語にいう〈うつろひ〉のことだ。移るという動詞に反復・継続の上代助動詞「ふ」が未然形接続した「移らふ・映らふ」が転じてできたこの言葉は、歌という営為にとって〈ながむ〉〈あくがる〉と並んで重要な語句だろう。

 

反歌一首

 

移ろひに過ぎずこの世の明け暮れも揺らめきやまぬこの篝り火も

 

 

 仮にも歌詠みの端くれである私が、和語の精髄を逆照射的に英語から再認識させられるとは、まさに他山の石、以て玉を攻むべしといったところか。それはそれとして、前置きに対して本旨が極めて短いというのは、いったいどういう御料簡なのか?ひとえに筆者の見識と筆力を疑う次第である。

 

 

 

ナタカ歌集『ドラマ』についての覚え書き

 

 巷で話題のコミケよろしく文学もすっかり個人頒布で販売される時代になった今日この頃ですが、皆様は文学フリーマーケット(通称〝文フリ〟)などに立ち寄られたことはあるでしょうか。私自身は実はまだ行ったことがなかったりします。

 

 さて、そんな文フリでも販売されていたナタカさん(Twitter:@Utanataka)の歌集『ドラマ』を今回はご紹介したく筆を執った次第です。私がTwitterに短歌を投稿しはじめた頃からの相互フォロワーで、その延長でたまにお酒を飲みに行ったりするようにもなりました。

 

元々著者の作る短歌を僕が好きだったことに端を発する間柄なので、やや贔屓が入ってくるかもしれませんがご了承いただければと思います。

 

私自身は著者の全体を通した作風を肌寒い日の陽光、乾いた優しさといった感じで捉えていますが、そのあたりの感性は作品集として纏められたことでより明瞭になっているようです。というわけで、『ドラマ』感想、参ります。

 

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無防備を集めて少し陽がたまる あくび はなうた うたたね ねこぜ

るるるると電話が鳴るけど今ちょっと泣いているるる出られないるる

 巻頭歌二首。猫が寝ているような印象も受ける一首目、物憂い春の一幕。人の持つ脆さが縷縷として溢れ出したかのような二首目は、技巧的。初句の〝るるるる〟は確かに電話の着信音だろうが、四句以降の〝るる〟は間に鳴っている着信音のようでもあり、鼻を啜る音のようにも思われる。

 

笑わせる役をしている弟の隣で笑う役をしている

 日常というものは、概して演技めいた色彩を帯びるもの。不全感が読ませる一首。

 

胸に星、不時着したんだってねえどうだきれいな炎だったか

 だってねえ、どうだ、きれいな、炎だったかと長音と拗音が心地よく響く一首は、不思議な美しさを持って胸に迫る。読んでいるこちらがこの一首に問いただされているかのような錯覚とともに。

 

蝶になるためのわずかな液体が蛹の中で起こすさざ波

 〝さざ波〟という比喩が抜群の効果を発揮する一首は、未生のものへの憧れを読者にもたらす。蝶を歌や詩の暗喩と読んでみるのも一興だろう。

 

ぬばたまの斎場の静けさを聞く いつか炎になる日を思う

 夜、闇、夢などに掛かる枕詞である〝ぬばたまの〟を斎場に掛けている。特筆すべきは、奔放ながらも端正な韻律の冴え。斎場の静/けさを聞く、という句跨りが読む者を一層厳粛な心持ちにさせる一首。静けさの中に燃え盛る炎は、あるいは救いかもしれない。

 

深々とフードを被るこの影を誰とも分かち合うことがない

 人がすべてそれぞれの形の影を引き連れているように、影と私たちは切っても切れない関係にある。人々が憩う木蔭などとは異なる、自らのためだけの影。遮るものの存在、分かち合わないことにこそ安らぎがある。そんな日は、私もフードを引きかぶってしまおう。

 

風ですか さっき私の首元にるっと巻きついていったものは

 あれは、本当に風だったのだろうか。〝首元〟という言葉選びにかすかな危うさが潜む。〝る〟の字のような複雑な軌跡を描いて過ぎ去った風は、きっとまた戻ってくるのだろう。

 

がらんどう、わたしのなかのがらんどう 無いとは痛むものなのですね

 自らの空洞に呼びかける一人の存在。読点の分だけ遅れてくるリフレイン。その反響は誰が返したものなのか。私か?空洞か?それがどちらであったとしても、私たちは痛みを抱えて生きていくしかないのかもしれない。

 

かまきりの鎌こそばゆくこの鎌で狩られるもののあるということ

 蟷螂の斧、という慣用句がある。捕食される対象にとって生命の脅威となるカマキリの鎌も人間にとってはくすぐったい程度のものでしかない。そんな一抹の寂寥感。

 

人間に生まれたからね たてがみに顔をうずめることができない

 人に生まれてしまった。獅子のたてがみに埋もれて甘えた日々を持つ一生もあったのだろうか。

 

あぽすとろふぃ、えす 僕はもうこれ以上だれのものにもならないからな

 

 切れ目の判別が難しくも巧みな一首。読点に従って読むと、しっかり定型に嵌っている。生まれ落ちた時点で人は誰のものでもない。あるいは自分のものだろう。He'sでもShe'sでもない、硬質な印象。

 

二度同じゆらめきはなく炎からもう目を離すことができない

 二度目の〝ことができない〟結句置き。炎そのものの一回性ではなく、その揺らめきの一回性に主眼を置いたあたりに技を見る。詩が生まれるときの炎、という読みも許されていい。

 

曇りのち雨のち曇り強く雨 傘をさすことには慣れている

 降ると降らざるとに関わらず、そしてたとえ強く降ってくることがあろうとも、雨を厭うことはない。傘さえあれば、雨だって旅のお供なのだから。そんな意志を感じる一首。

 

あじさいは骨まで青い まだ誰も見たことがないあじさいの骨

 詠み手としてはたやすく決まってくれる二句言い切りの一字空け。その強さがこれほど絶妙な強度で効いた歌を読めることはそう多くはない。ないものをないといいながらも繰り返されることによって生まれる異質な実在感。稀に見る秀歌だろうと思う。

 

裏返す鰆の白さ まぶしくて見られなかったもののいくつか

同じく二句言い切りの一字空け。ただ生きていたはずの鰆を食らって生きる私たちにとって、彼らの持つ背景は見るに堪えないものなのかもしれない。あるいは、その眩しさゆえに。

 

孤独って毒なのかなあなんかみんな触れないようにしてるんだよね

 わずかに幼い文体が見事な一首。すっとぼけた物言いの裏に潜ませた蠱毒が蝕んでいるのは、俺か、お前か。

 

うっとりとパンに塗りたい朝焼けは蜂蜜の瓶にためておくから

 この歌のみ逆選。二句の〝塗りたい〟と結句の〝ためておくから〟が照応しきっていない印象。ここは〝パンに塗ろうよ〟と呼びかけてほしかったところ。

 

言いかけてやめるさくらも言い切るもさくらひとりで歩くもさくら

 ひたすらに絶妙であり、感想も不要。私信として、背後に楠誓英のある一首を感じた。それが錯覚でなければ、とても嬉しい。

 

幼獣のようにじゃれつく春風を冬のさなかに見つけてしまう

駆け寄ってきたかたまりを抱き上げる はるかぜ、あたたかくてえらいね

 こんなにも秀逸な擬人法を久々に見た、というのが素直な感想。何の獣か特定していないところが一層好ましい。優しい二首。

 

ではご覧くださいウルトラハイビジョンカメラがとらえた猫のあくびを

 衝撃の技巧。それこそ動画のパースがあっていくかのように活写された猫のあくびがどうしても精密なものとして思い描いてしまう。無類の力業。

 

地上へは階段で行く失った走行性を揺り起こしつつ

 結句〝揺り起こしつつ〟によってこちらに眠った走行性も揺り起こされていくような感覚の共振を伴う。さあ、野生に帰ろう。

 

 

*****

 

 以上でこの感想を締めくくりたいと思う。全編を読み通して思ったこととして、著者の技術の幅はやはり相当なものがあると改めて感じた。反面、無意識のうちに〝決め技〟のようなものを持ってしまっていないかという点を危ぶむ。自覚のない決め技は、知らないあいだに効力を失ってしまう危険性を秘めている。既にその危殆に瀕してしまった実作者として、ひとつの老婆心をここに掲げておく。

 

最後に、ここで私が評を加える必要を感じなかったものの、好きだった歌と、返歌を二首。

 

死ぬのかと思ってしまうほど雨後の視界は光、光しかない

私にも部首をください仏さま雨かんむりをのせてください

変ですねこんなに澄んだ夜なのにだれもおもてを歩いていない

熱の日に食べるアイスの心地よさ 銀のスプーンに生まれたかった

 

 

世のなかをうすく儚むひとがいて影から見える光のはなし

 

雨というシロツメクサのかんむりを載せた貴女はきっと霽れやか

 

文責:田上純弥